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牧師だより

日本聖公会京都教区「教区報:つのぶえ」

  2022年10月 「一線を越える」
そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。(ルカによる福音書5章29節)
 先日、第19回奈良県宗教者フォーラムに参加しました。昨年・一昨年はコロナのために中止となりましたので、わたしは今回初めての参加となりました。
 場所は興福寺会館、実行委員はお寺と神社の方ばかり、そして参加者は神道11名、仏教31名、天理教などの新宗教13名、キリスト教はわたし一人だけでした。
 しかし基調講演に続いて30代・40代の五名の方々による感話を聞くことで、様々な気づきが与えられたことは感謝でした。参加して、本当に良かったと思います。
 わたしは自分と違う人たちの中に飛び込むのは苦手です。みなさんはいかがでしょうか。国籍、性別、宗教、職業、育った環境…。その根底に「差別」や「偏見」があると、その壁はますます高いものになっていきます。
 この原稿を執筆している間、テレビをつけると連日のように、ある宗教団体と政党との関係についての報道があります。
 その中で政党は宗教団体に対して、「今後一切の関係を絶つ」と宣言します。これは政治の判断ですので、わたしがとやかく言うことではありません。しかしわたしたちクリスチャンは、これらの出来事をどう捉えればよいのでしょうか。
 ルカによる福音書5章27〜32節には、イエス様がレビを弟子にする物語が書かれています。レビは徴税人でした。彼らはローマの手先としてユダヤの人々から税金を集めていたため、ユダヤ人からは裏切り者扱いされていました。また決められた額以上を集めて自分の懐に入れるということも、日常的におこなわれていたようです。
 人々はそんな彼らを罪人と並べて称し、決して関わろうとはしませんでした。食事をするなど、もっての他だったのです。
 しかしイエス様は、一線を越えられました。「一線を越える」とは、「踏み止まるべき範囲を外れて『するべきでない事』に及ぶこと」です。しかし徴税人レビからすると、「みんなが『するべきでない事』と思っている中、一歩踏み出して来てくれる」ことなのです。
 なぜイエス様は、一線を越えられたのでしょうか。それはそこに、飼い主のいない羊がいるからです。救いを待ちながらも、自分が何をしているのかさえ分からない、そんな人がいるからです。もっと言うと、イエス様が一線を越えてくださらなければ、わたしたちにも救いは訪れなかったでしょう。
 イエス様に倣うわたしたちは、どう生きるべきでしょうか。

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
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牧師:司祭マタイ古本靖久
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