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牧師だより

日本聖公会京都教区「教区報:つのぶえ」

  2018年6月 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
 時折ぼんやりと、礼拝堂の椅子に座り、天井を見上げていることがあります。心静かに、誰にも邪魔されずに、ただただボーっとする。すると何かホッとするような、そんな気持ちになります。
 ある日のこと、イエス様と弟子たちは舟に乗って湖の向こう岸に向かいます。しかしその途中、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになりました。弟子たちは慌て、うろたえます。そこで眠っているイエス様を起こし、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えるのです。
 教会はしばしば、舟にたとえられることがあります。わたしが勤務する桃山基督教会の礼拝堂の天井は、舟底をひっくり返したような構造になっています。イエス様を真ん中にして、わたしたちは一生懸命に舟をこぎます。しかし波風にあおられ、沈没しそうになることもあります。
 教会だけではありません。わたしたちの心の中も同じです。いくらイエス様が一緒にいてくれると信じていても、どうしようもない不安の中で、涙を流しながら叫ぶことだってあると思います。「イエス様、わたしがおぼれてもかまわないのですか」。
 わたし自身、イエス様に助けを求めながらも、返事が来ないことにいら立ちを覚えたことが多々ありました。家族が病気になったときに。何も手につかないほど落ち込んでしまったときに。自分の思い通りにならなかったときに。しかしそのたびに、わたしはイエス様に出会い、「なぜ怖がるのか」という言葉を聞いてきたように思います。しかし「イエス様に出会い」というのは正確ではありません。イエス様の声を聞いて、いつもそばにイエス様がおられたことを思い出した、というのが正しいのかもしれません。
 弟子たちは、一緒に舟にいるのが他でもないイエス様だということを忘れていました。イエス様がいるのに怖がり、イエス様を信じることができませんでした。この出来事は、何度も何度も繰り返し起こります。わたしたちも、幾度となく経験することです。そしてそのたびに、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」という声を聞くのです。
 わたしたちの信仰は、そこにあります。何度疑っても、何度恐れても、いつもイエス様がそばにいて下さる。わたしたちは一人ひとり違った形で、イエス様の声を聞き、イエス様に出会っています。なかなか風がやまなくても、暗闇から抜け出せそうになかったとしても、必ずすぐ横にイエス様がいて、導いてくださる。そのことを信じて、歩んでいきたいと思います。

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
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〒630-8213
奈良市登大路町45

TEL 0742-22-3818

牧師:司祭マタイ古本靖久
副牧師:司祭エレナ古本みさ