2015年9月 「神さまに召されるということ」 | ||||
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。(ヨハネ15:16) | ||||
「あなたはどうして聖職になろうとしたのですか?」 わたしはこれまで、幾度となくこのような質問をされてきました。そのたびに正直、どう答えてよいのか、わかりませんでした。それは、わたしが持つ「聖職」という言葉のイメージとわたし自身がかけ離れているからかもしれません。 また「聖職」という言葉についても、何か自分たちを特別扱いするような響きが感じられ、どうも好きになれない、そのような気持ちを消し去ることができなかったのです。 そんな中、一人の青年との会話が、わたしの心を打ち砕いてくれました。 彼は長い間関東の教会に行っていますが、洗礼を受けていませんでした。わたしは彼に洗礼を受けることを勧めました。すると彼は真剣な表情で、こう答えてくれました。「まだ、神さまの声が聞こえていないので」。 彼にとって、洗礼は自分で決心することも必要ですが、何よりも神さまからの呼びかけが必要だったのです。 このときにわたしは、自分がどれほど自分の力で「聖職」になろうとしていたのか、また逆に「聖職」というものから逃げようとしていたのか、強く知らされたように感じました。そして自分は誰から「聖職」として立てられたのかを、思い起こさせられたのです。 改めて教会問答を見てみました。「聖職とは何ですか」という問いがあります。そこには、「キリストとその教会を表し、信徒とともにみ言葉を宣べ伝え、み業を証し、聖奠を行い、神の民を整えて奉仕の業をさせるために、キリストによって建てられた者で…」とあります。教会を表すとは代表する、代理を務めるという意味ですが、「信徒とは何ですか」という問いに対しての答も、同じ言葉から始まっています。 つまり信徒も聖職も、同じようにキリストの体である教会をつくり上げる者として、神さまによって召されているのです。その中で聖職は、聖奠を執行し、神の民である信徒を整えるという役割をも担っているということなのです。 わたしたちが神さまを選んだのではなく、神さまがわたしたちを選んだのです。神さまがわたいたちを任命したのです。その呼びかけに、わたしたちは真摯に答えていきたいものです。 |