本文へスキップ


牧師だより

奈良基督教会「教会報:シオンの丘」

  2024年3月
 「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコによる福音書10章15節)
 2023年5月に新型コロナウイルス感染症が5類に移行し、社会生活も少しずつ落ち着きを取り戻してきたように感じます。教会の階段下にある東向商店街にも、多くの外国人観光客が行き交うようになりました。しかし一方で、未だ先が見えない暗闇の中におられる方もおられます。ご自身の体調のこと、ご家族のこと、また今年1月1日に発生した能登半島地震の出来事は、わたしたちの心に暗い思いを抱かせます。わたしたちはそのたびに神さまに助けを求めます。叫ぶこともあるでしょう。
 2024年度の年間聖句は、マルコによる福音書10章15節の言葉です。ここは、「子どもを祝福する」という小見出しがつけられた箇所です。
 あるとき、人々がイエス様の元に子どもたちを連れて来ます。それはイエス様に触れてもらうためでした。ところが弟子たちは、子どもたちを連れて来た人々を叱ります。するとイエス様はその弟子たちに「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と言われ、年間聖句の言葉へと続いていきます。
 聖書によるとイエス様は、いろいろな人たちと歩んでこられたことが分かります。病気の人、貧しい人、罪びと、徴税人、娼婦、異邦人。さらに様々な場所に出向き、人々に手を差し伸べて光を与えてこられたイエス様の姿が、そこには描かれています。弟子たちも、ただ一方的にイエス様に見い出され、そして声を掛けられて従った一人ひとりでした。徴税人から弟子として招かれた人さえいます。
 ところがその弟子たちが、子どもたちを連れて来た人を叱るのです。「ここはそのような者にはふさわしくない」、「イエス様にはそんな時間などない」、弟子たちの心の中にはそのような思いがあったのでしょう。そして何よりも彼らは、自分たちは「正しいこと」をしていると思っていました。なぜなら当時、子どもは人の数にも入れられていなかったからです。子どもの存在は、無視されても仕方のないものだとされていたのです。
 しかし考えてみますと、それは以前の弟子たち、つまり自分たちの姿と同じだったはずです。神さまの目から見たらちっぽけで、何のとりえがないにもかかわらず、一方的に見出された彼ら弟子たち。そしてこの弟子たちの姿は、わたしたちと似ているのかもしれません。
 わたしたちもまた、神さまに背き、遠く離れた存在であったにもかかわらず、神さまはその愛によってわたしたちを招かれました。そのことを忘れ、自分の居心地の良さを求めると、その歩みは神さまのみ心とは違う方に向かうのかもしれません。
 そうならないように、イエス様は「子どものように神の国を受け入れる人でなければ」と言われます。さらにその直前には、「はっきり言っておく」(新しい聖書では「よく言っておく」)というイエス様の言葉があります。この言葉は直訳すると、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」となります。イエス様が「アーメン」という言葉を先頭につける時、その後に続く言葉は、「いいかい、このことはしっかり覚えておいて、忘れたらダメだよ」という意味を持つ、とても大事なものです。
 それでは、「子どものようになる」とはどういうことでしょう。先ほども書いたように、当時子どもはとても小さな存在でした。社会でも誰かの助けがないと、生きて行くことはとても難しかったのです。そのような子どもたちが生きるためには、誰かにすべてを委ねることが必要でした。自分の力に頼るのではなく、誰かの助けや導きを信じて生きていく。
 その子どもたちの姿にわたしたち自身を重ね合わせてみましょう。イエス様は自分の力で何とかしよう、肩ひじ張って、手を握りしめたままでいるわたしたちに対しても、「大丈夫、力を抜いて、わたしにすべてを委ねてごらん」と招かれているのです。そのイエス様の言葉に聞き、受け入れ委ねることで、わたしたちは「子どものように」なれるのです。

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
 教会HPはこちら

〒630-8213
奈良市登大路町45

TEL 0742-22-3818

牧師:司祭マタイ古本靖久
副牧師:司祭エレナ古本みさ