2018年7月 | ||||
「決断を求められるとき」 | ||||
6月18日月曜日の朝7時55分、激しい揺れが大阪北部を中心に襲いました。教会のある京都市伏見区でも震度5弱を観測しました。 桃山幼稚園は前の週の土曜日が参観日で、地震があった月曜日は代休でした。しかしわたしは、地域の小学生を毎朝学校に連れていくという役目がありましたので、その時間は十数人の子どもたちと一緒に歩いていました。 突然、下からドンと突き上げられるような激しい力を感じ、一瞬あたりに静寂が走ります。「なに?」、「地震?」、子どもたちの口から、呟くような声が漏れます。耳をふさいで固まってしまった子、涙目になりながらじっとこちらを見つめる子、強がって笑いだす子。一人一人の姿を見ながら、「じっとして、動かないで」、そう叫ぶのが精一杯でした。そして心の中で、必死に神さまにお祈りをしていました。 そして七月初旬に西日本を襲った豪雨のときにも、決断を迫られる場面がありました。「何らかの警報が発令されていれば、休園」という園の決まりを元に、テレビのニュースとインターネットの天気予報などを確認しながら、保護者へのメールを作成し、送信する。 その他にもわたしたちは、日常生活の中で幾度となく決断をする場面を経験します。それは命にかかわるような重大な局面のときもあるでしょう。他人からみたら何でもないようなことでも、自分にとってはとても大きな決断だということもあるかもしれません。 その決断のときに、「イエス様だったらどうする?」という視点を持つことができたらと思います。年間聖句に「神の御心に適うこと」という言葉が出てきます。神さまの御心のままに歩まれたイエス様に倣うことは、神さまの御心に生きることを意味します。 わたしが以前持っていた携帯ストラップには、「WWJD」という文字が彫られていました。この文字は、「What Would Jesus Do?」の略で「イエス様だったらどうする?」という意味です。様々な決断を迫られるときに、「イエス様がこの場におられたら、どうしただろう」とちょっとだけ考えるのです。 もちろんイエス様のようになれるとは思いません。しかし少しでもイエス様のように生きたい。その思いが大切なのではないでしょうか。 |