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牧師だより

桃山基督教会「教会報:葡萄の樹」

  2015年7月
 聖書の中には「恐れ」という言葉がたびたび出てきます。
 まず、恐れる人々が登場します。舟が沈みそうになったときに風や波を静めたイエス様を見て恐れる弟子たち。悪霊に取りつかれた人が正気になったのを見て恐れる人々。十二年間出血が止まらなかった女性も、湖の上を歩くイエス様を見た弟子たちも、イエス様が納められた墓が、空であったのを見た婦人たちも恐れたのでした。
 どうしてこれほど、「恐れ」という言葉が出てくるのでしょうか。それは、わたしたち人間が恐れる者として創られているからではないでしょうか。そしてそれは、神さまがわたしたちをご自身に出会わせるためなのかもしれません。
 わたしは説教壇から語るとき、その直前まで怖くてたまらないことがよくあります。礼拝が始まって、使徒書が読まれるあたりからだんだん不安になって、変な汗が出てくるのです。
 ある時から、そのような思いが消えない時は、礼拝堂の天井を見るようにしています。桃山基督教会の天井は、船底のような形をしています。教会は昔から舟にたとえられてきたことに由来します。
 天井を見上げた時に、いつもイエス様の言葉が胸に響いてきます。「恐れることはない」と。
 そうだ、わたしは自分の力で語っているのではない。神さまが語る口を、そして言葉を与えてくださっている。だから恐れなくていいんだ。
 すると不思議と体の力が抜け、語ることができるのです。
 わたしたちは日常の中で、もっと大きな恐れに出会います。苦しみの中に投げ出されます。時には、イエス様の「恐れるな」という言葉が重荷になることもあるでしょう。
 しかし聖書は何度も語るのです。「恐れるな」と。「恐れ」に捕らわれ続けた人々のことを伝えるとともに。
 わたしは思います。わたしたちは恐れてもよいのです。何度恐れても、その度に「恐れなくともよい」と語りかけるイエス様の声に聞くのです。
 聖書に出てくる弟子たちもそうでした。イエス様に従いながらも幾度となく恐れ、イエス様が十字架につけられた時には見捨てて逃げて行った。でも復活の主に出会い、変えられたのです。恐れを自分たちで克服したのではなかったのです。
 わたしたちの人生には必ずや、痛みや悲しみに苦しむ時があります。その時にこそ、恐れつつ、「恐れるな」という主の言葉に聞いていきましょう。

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
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牧師:司祭マタイ古本靖久
副牧師:司祭エレナ古本みさ