2015年1月 | ||||
神学校に通っていた時のことです。神学生と共に病院に出かけてそこで入院患者さんと会話をするという実習がありました。週一回の授業でしたが、毎回すべての会話を記録して、逐語録を作成しなければならないのが、とても大変でした。 その記録を他の学生たちと一緒に読み返し、お互いに会話の仕方について学んでいくのですが、その時に気づいたことがあります。それはあまり人の話を聞いていないという自分の姿です。 今でもわたしはそうなのかも知れませんが、聞くことよりもしゃべる方が好きな人は多いように感じます。 人間同士なら、それでよいかもしれません。お互いに気をつけないといけないことも多少出てくるでしょうが、しゃべりたがりの人がいても、さほど大きな問題にはならないでしょう。 しかし聖書を見ていくと、「聞く」という言葉は大変重要な意味を持っていることがわかります。旧約聖書にはたびたび「聞け、イスラエルの民よ」という神さまの言葉が出てきます。また新約聖書を見てみるとイエス様は「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言われます。聞くということがとても大切にされているのです。 ただ一言で「聞く」といいますが、何を聞くかということも併せて考えてみたいと思います。 今年の年間聖句は、このページにあるように、ローマの信徒への手紙の一節を選びました。パウロは自分がまだ行ったことのないローマの教会の信徒に向けて、この手紙を書いたといわれます。 しかし昨年の秋、ふとこの箇所を読んでいく中で、パウロの言葉がわたしに向けて書かれているように感じたのです。 その言葉を聞いたときに、自分の心の中にある問いかけが浮かんできました。自分は今、毎日の生活の中で神さまの言葉を聞いているのだろうか。自分の思いや考えを前面に出し、神さまのみ心を求めずに歩んではいないだろうかと。 神さまの言葉を聞くこと、それは聖書を読むこと、また祈ることだと思います。しかし日々の生活の中で、そのことが疎かになっているのではないかと、問わずにはいられませんでした。 わたしたちの信仰は、イエス様のみ言葉を、その喜びのおとずれを聞くことから始まります。 どうぞご一緒に、み言葉に耳を傾けていきましょう。神さまの声を感じ、その愛に触れることができますよう、歩んでまいりましょう。 |