
| 5月 1日「士師記9:6〜15」 | ||||
| シケムのすべての首長とベト・ミロの全員が集まり、赴いて、シケムの石柱のあるテレビンの木の傍らでアビメレクを王とした。 (士師記9章6節) |
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| 70人の兄弟(末の子ヨタムだけは身を隠して生き延びましたが)を殺害したアビメレクは、王となりました。この頃イスラエルには、王はいませんでした。それは神さまこそが本当の王であると考えていたからです。 | ||||
| アビメレクが王となったのを聞いて、生き延びた末の子ヨタムはゲリジム山の頂に行って立ち、大声を張り上げて言います。その内容は、シケムの人たちがアビメレクを王としたことへの批判です。 | ||||
| オリーブやいちじくやぶどうといった木は、「王になってくれ」と言われてもそれを断るでしょう。それらの木は、イスラエルの正しい人のことです。しかしアビメレクは茨であり、その火によってあなたたちも燃やされてしまいますよ、と警告するのです。 | ||||
| 5月 2日「士師記9:16〜20」 | ||||
| わたしの父はあなたたちのために戦い、命をかけて、あなたたちをミディアンの手から救い出した。 (士師記9章17節) |
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| 「わたしの父」というのは、エルバアル(ギデオン)のことです。彼は確かに士師として、イスラエルを救い、また導きました。しかし彼は異教の神にも仕え、その結果人々も姦淫にふけり、バアル・ベリトという異教の神を自分たちの神としてしまいます。 | ||||
| そのようなことがあり、神さまはイスラエルに分断を与えられたのかもしれません。そもそも70人も息子がいることで争いが起きないわけがないのです。エルバアル(ギデオン)は、子孫に対して必要な備えをすることができなかったのです。 | ||||
| ヨタムはシケムの首長たちに対して、アビメレクを王としたことへの批判を繰り返します。ただヨタムは末の子でしたので、シケムの人たちはその言葉を聞いてもそれほど恐れなかったようです。 | ||||
| 5月 3日「士師記9:21〜29」 | ||||
| ヨタムは逃げ去った。彼は逃げてベエルに行き、兄弟アビメレクを避けてそこに住んだ。 (士師記9章21節) |
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| ヨタムはシケムの首長たちの前でアビメレクを王としたことを批判した後、ベエルに住みます。ヨタムはここから自分で行動することはありませんが、その呪いの言葉を神さまは聞かれました。 | ||||
| アビメレクはイスラエルを支配しますが、自分を王として立てたシケムの首長たちとの間に、不穏な空気が流れます。首長たちはアビメレクを待ち伏せし、襲う者を配置するようになりました。 | ||||
| そのとき、エベドの子ガアルとその兄弟たちが登場します。彼らはシケムの首長たちを信用させ、一緒に食事します。神殿で食事をするくらいですから、よほど信頼されたのでしょう。そしてガアルはアビメレクを片付ける、と豪語します。 | ||||
| 5月 4日「士師記9:30〜33」 | ||||
| 使者をアルマにいるアビメレクのもとに送って、こう言わせた。「エベドの子ガアルとその兄弟がシケムに来て、この町をあなたに背かせようとけしかけています。 (士師記9章31節) |
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| エベドの子ガアルは、アビメレクを嘲っていました。そのことはシケムの首長たちの共感を得たようです。しかしその言葉に反感を持つ人もいました。町の長ゼブルです。彼はアビメレクの元に使者を送ります。 | ||||
| どんな人でも、100%の支持を得ることは難しいことです。また町の長ともなれば、王からいろんな面で優遇されてもいたでしょう。そのこともあってか、ガアルの陰謀をアビメレクに伝えるのです。 | ||||
| このような「密告」は、あらゆる作戦を無効にしてしまいます。しかし考えてみると、密告しそうな人がいる場でアビメレクを嘲ったのが、そもそもの間違いだったのです。もう少し慎重さが欲しかったところです。 | ||||
| 5月 5日「士師記9:34〜41」 | ||||
| しかし、アビメレクが追い上げ、ガアルは敗走することとなった。斬り倒された者は数多く、城門の入り口にまで及んだ。 (士師記9章40節) |
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| 昨日の箇所で町の長ゼブルはアビメレクに対し、夜のうちに行動を起こし、明朝、日の出と共に町に攻撃をかけるように伝えました。ガアルが事を起こす前に、先手を打つように伝えたのです。 | ||||
| ガアルは町の門の入り口に立っていました。そしてその横には町の長ゼブルがいました。ガアルはまさかゼブルが裏切っているとは思いもしなかったでしょう。彼は山々の頂から部隊がやって来るのを見ます。 | ||||
| 人々の前でアビメレクを嘲った手前、ガアルは先頭に立って戦わざるを得ませんでした。しかしガアルは敗走することとなり、彼の兄弟も追い払われてしまいます。まさに、口は災いの元ということです。 | ||||
| 5月 6日「士師記9:42〜49」 | ||||
| アビメレクは、その日一日中、その町と戦い、これを制圧し、町にいた民を殺し、町を破壊し、塩をまいた。 (士師記9章45節) |
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| ガアルを打ち負かしたアビメレクは勢いづき、シケムと戦います。前日ガアルと共に祝宴を催し、神殿に行って飲んで食べたシケムの首長たちは、その勢いはどこへやら、一方的にやられてしまいます。 | ||||
| アビメレクは民を殺し、町を制圧した後に塩をまきます。この行為が何を意味するのかは、よくわかりません。ただ、「清め」と関連しているように思います。シケムの首長たちは、神殿の地下壕に逃げ込みます。 | ||||
| しかしアビメレクはその地下壕の上に枝を積み、火をつけます。非常に残酷な行為です。ヨタムが語った「この茨から火が出て、レバノンの杉を焼き付きします。(士師9:15)」という言葉が思い起こされます。 | ||||
| 5月 7日「士師記9:50〜57」 | ||||
| 一人の女がアビメレクの頭を目がけて、挽き臼の上石を放ち、頭蓋骨を砕いた。 (士師記9章53節) |
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| 勢いに乗ったアビメレクは、テベツという町も制圧します。なぜそこまで戦いを続けないといけなかったのでしょうか。欲望に任せて、次の町、次の町を狙う。戦争によく見られる場面です。 | ||||
| しかしそこに落とし穴が待っていました。アビメレクはテベツにある堅固な塔の上から投げられた引き臼の上石によって、頭蓋骨を砕かれたのです。その上石を投げたのは、女性でした。彼は女性に殺されるのを良しとせず、従者にとどめを刺させます。 | ||||
| 4章17〜22節の将軍シセラがヤエルという女性に殺された場面を思い起こします。神さまはこうして、ヨタムの呪いを成就させます。エルバアル(ギデオン)の子アビメレクの物語は、こうして幕を下ろします。 | ||||
| 5月 8日「士師記10:1〜5」 | ||||
| 彼には三十人の息子があった。彼らは三十頭のろばに乗り、三十の町を持っていた。それらは今日もハボト・ヤイルと呼ばれ、ギレアドの地にある。 (士師記10章4節) |
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| ここで物語は、小休止に入ります。オトニエル、エフド、バラク、デボラ、ギデオンといった人たちは「大士師」と呼ばれ、その活躍は聖書に詳しく書かれています。そのあとギデオンの子アビメレクは、兄弟たちを殺害するという大きな罪を犯します。 | ||||
| そのあとに出てくる二人の士師、トラとヤイルは、「小士師」と呼ばれます。「大士師」が他民族からの圧迫から民を救う士師であるのに対し、「小士師」は外敵の攻撃とは直接関係しない裁判人や仲裁者を指すそうです。 | ||||
| トラは23年間、ヤイルは22年間、イスラエルを裁きました。その期間の大きなもめ事は、聖書には記されていません。ヤイルには30人の息子があったそうです。神さまの祝福が豊かに与えられたということです。 | ||||
| 5月 9日「士師記10:6〜16」 | ||||
| 彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになったので、主はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった。 (士師記10章16節) |
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| 「水戸黄門」や「遠山の金さん」のように、あるフォーマットにしたがって進んで行く時代劇は、ある種の安心感を覚えます。しかし士師記でのフォーマットのなぞらえは、「またか!」という思いしか生まれてきません。 | ||||
| イスラエルの人々は、またもや主を捨て、他の神々に仕えます。書いてあるだけで7つの神々です。ただ今回、いつもの流れと違うのは、士師が立てられる前に人々が罪を告白したということです。 | ||||
| これまでは、民はただ苦しみを叫んでいるだけでした。しかし今回は、「わたしたちはあなたに罪を犯しました」と告白します。そして異教の神々を、自分たちの中から一掃するのです。その思いが、神さまに伝わるのでしょうか。 | ||||
| 5月 10日「士師記10:17〜18」 | ||||
| 民ギレアドの指導者たちは互いに言い合った。「アンモンの人々に戦いを仕掛けるのは誰だろうか。その人が、ギレアド全住民の頭となろう。」 (士師記10章18節) |
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| アンモンの人々は、イスラエルに対して陣を敷きます。イスラエルの人たちは自分たちの主を捨て、他の神々に仕えていました。しかし圧迫され、神さまに助けを求めます。その結果、アンモンとイスラエルの間には緊張が走ったのでしょう。 | ||||
| そもそもなぜ、イスラエルの人たちは他の神々に仕えたのでしょうか。何事も「乗り換え」をする際には、リスクがつきものです。一つ考えられるのは、イスラエルの神が厳しすぎたということかもしれません。 | ||||
| 異教の神々に仕えた人たちが「姦淫にふけった」という記事が、聖書には見受けられます。そのような欲望を許してくれる神々を、人々は求めたのでしょうか。それとも目に見える「ご利益」が、ニンジンのようにぶら下がっていたのでしょうか。 |