本文へスキップ


日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2025年4月1日〜10日

4月 1「詩編381017
 主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。わたしの主よ、わたしの神よ 御自身でわたしに答えてください。
(詩編38編16節)
作者は12編で、「疫病にかかったわたしを 愛する者も友も避けて立ち わたしに近い者も、遠く離れて立ちます」と書きます。いやいや、病気になったらたくさんの人がお見舞いに来ますよ、と思うかもしれません。
2020年から世界中に蔓延した新型コロナウイルスは、わたしたちの日常を変えていきました。その病気にかかると、“濃厚接触者”までが「隔離」されたいったわけです。当時の病気に対する考え方と、それほど違わないのかもしれません。
その孤独の中で、一切言葉を返すことのできない状況にありながら、「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます」と祈るのです。生きる力が絶えそうになっても、祈る力だけはわたしたちに残されているのです。
4月 2詩編381823
 主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください。
(詩編38編22節)
わたしたちは聖餐式の中で、懺悔をおこないます。「わたしは、思いと、言葉と、行いによって、多くの罪を犯していることを懺悔します。神よ、どうかわたしを憐れみ赦してください」。
しかしもし、毎週の懺悔の中でその罪悪の項目をすべて言い表さなければならないとしたら、どんなことになるでしょうか。聖公会の礼拝では、懺悔はまず司祭からおこないますが、その懺悔の言葉だけでかなりの時間を取らなければならなくなってしまうでしょう。
神さまのお怒りは正当なものなのだと思います。わたしたち罪深い者にとって、その罪の赦しがなかったとしたら、わたしたちは神さまから遠く離れてしまうしかないのです。わたしたちは、神さまの救いに頼るしかないということです。
4月 3詩編3917
 ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。
(詩編39編7節)
「過ぎ去る人生」:救いを求める祈りです。重病の試練を受けている人の個人的な嘆願がここには書かれています。表題にある「エドトン」とは、ダビデ宮廷の音楽指揮者の一人だったようです。
「わたしの口にくつわをはめておこう」、「わたしは口を閉ざして沈黙し」と、言葉を発して祈ることすらできない状況が書かれます。しかしその中においてこそ、本当の祈りをすることができるのです。
聖歌549番の1節に、このような歌詞があります。「祈りは口より いで来ぬとも まことなる霊の 願いことぞ 祈りは心の 底にひそみ 隠るる炎の 燃え立つなり」。その祈りの姿こそが、信仰なのです。
4月 4詩編39814
 主よ、わたしの祈りを聞き 助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください。わたしは御もとに身を寄せる者 先祖と同じ宿り人。
(詩編39編13節)
「しずけき祈りの」という聖歌548番があります。その2節の歌詞にはこのようにあります。「しずけき祈りの ときはいと楽し 悩みある世より われをよびいだし 父なるみ神に すべての求めを たずさえいたりて つぶさに告げしむ」。
この詩編39編で作者は、「わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう」と宣言します。叫び続ける祈りもあるでしょうが、口を開かない静かな祈りも大切なのです。
「あなたが計らうだろう」という信頼により、その祈りは楽しいものとなる。そのような信仰が持てたら、どんなに素晴らしいでしょうか。「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい」というみ言葉が心に浮かんできました。
4月 5詩編40112
 あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず 焼き尽くす供え物も 罪の代償の供え物も求めず ただ、わたしの耳を開いてくださいました。
(詩編40編7節)
「感謝と嘆願」:賛歌と救いを求める祈りです。作者はまず、自分が死の淵から救い出された過去について語ります。「滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ」てくれた主に対して、賛美をささげるのです。
そしてそのときに主は、いけにえも供え物も求めず、ただ「わたしの耳」を開いてくれたということです。この7節の言葉は、ヘブライ人への手紙10章5〜7節の「あなたは、焼き尽くす献げ物や罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした」に通じます。
神さまは救いの恵みに与かった人に対して、自発的に自分を献げることを求めます。「こういうことが決まっているからこの献げ物をしなさい」ではないのです。「この恵みをわたしは誰と分かち合おうか」という思いが大切なのです。
4月 6詩編401318
 悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ 何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く わたしは心挫けています。
(詩編40編13節)
詩編40編の前半で作者は神さまに救われたことを報告し、自分は誠実な証人であることを告げました。しかし後半部分では、自分に悪が迫ってきているので何とかして欲しいと願います。
悪が髪の毛よりも多く、自分にからみついているという状況を想像してみましょう。どんなに心を清く保とうと思っても、欲望や悪い思いが心に浮かんできます。黙想をしていても、頭の中の雑念を振り払うのが大変です。
神さまに信頼することの難しさを、作者は語っているようにも思います。しかしここからこの詩編は、救いを求める祈りへと変化していきます。ただただ主の助けを求めるのです。自分が弱いからこそ、主が必要なのです。
4月 7詩編41110
 わたしの信頼していた仲間 わたしのパンを食べる者が 威張ってわたしを足げにします。
(詩編41編10節)
「裏切られた病人の祈り」というタイトルの他に、「弱者を思いやる者達に対する主の是認と救い」と解説している本もありました。みなさんがこの詩編41編にタイトルをつけるとしたら、どのようなものになるでしょう。
10節に書かれている「信頼していた仲間」とは、ダビデの顧問をしていたアヒトフェルのことではないかと言われています。彼はダビデに近い身分でありながらダビデを裏切り、アブサロムの陰謀に加わっていきました(サムエル記下15章)。
病気や様々なことで苦しんでいるときに、ネガティブな思いが心に溢れることがあります。「裏切られた」というタイトルは、この前半部分の苦しみからつけられたのでしょう。しかし後半に向けて、神さまへの感謝が祈られていきます。
4月 8詩編411114
 そしてわたしは知るでしょう わたしはあなたの御旨にかなうのだと 敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。
(詩編41編12節)
詩編41編の前半に出て来た「敵」は、病に苦しむ人に対して傷口に塩を塗るような行為をしていきます。この詩編の作者はその痛みの中にあっても、主の憐れみを求めて祈り続けます。病人に必要なのは憐れみなのです。
「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。(マタイ5章7節)」は、イエス様が山上の説教の中で語られた言葉です。神さまが憐れみ深いように、わたしたちも憐れみを与える者となるように。そのように語られています。
詩編は全部で150編ありますが、実は3巻に分かれています。そして第1巻は、1編から41編までです。その巻末を見ると、「アーメン、アーメン」という言葉で締めくくられます。わたしたちも「アーメン!」と唱えて第2巻へと入りましょう。
4月 9詩編4215
 涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。
(詩編42編2節)
「追放された者の嘆き」:救いを求める祈りです。本来詩編42編と43編は、一つの詩であったようです。それは42:6、42:12、43:5と同じ言葉が繰り返されていること、また43編には表題がないことからもわかります。
詩編42編を読むと、「谷川の流れをしたう鹿のように」という讃美歌を思い出す方もおられるでしょう。1984年に作られたこの歌は聖公会の聖歌集には収められていませんが、とても有名なものです。
「谷川の流れをしたう鹿のように 主よ我が魂あなたを慕う あなたこそ我が盾 あなたこそ我が力 あなたこそ我が望み 我は主を仰ぐ」。わたしたちが覚える渇きを癒してくれるように、わたしたちは主の恵みを求めていくのです。
4月 10詩編42612
 わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ 嘆きつつ歩くのか。」
(詩編42編10節)
大斎節によく歌われる聖歌に、125番があります。「すべてを尽くして 罪に立ち向かえ われらを支える 力はキリスト」という歌です。昨日の箇所で書いたように、わたしたちの魂は神さまなしには生き続けられません。
この詩編は神殿のないところに追放され神さまから遠ざけられた人びとが、シオンの丘で主を賛美することを望みながら歌ったものだと言われます。「激流」、「深淵」、「波」といった耐えがたい困難の中で、祈った歌です。
その中で「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ」と自分を励ましつつ、心を神さまに向けるのです。神さまはわたしたちの魂を、ご自分に向かうように造られました。だからわたしたちの魂は、神さまを慕い求めるのではないでしょうか。

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
 教会HPはこちら

〒630-8213
奈良市登大路町45

TEL 0742-22-3818

牧師:司祭マタイ古本靖久
副牧師:司祭エレナ古本みさ