3月 21日「詩編35:18〜21」 | ||||
わたしに向かえば、大口を開けて嘲笑い「この目で見た」と言います。 (詩編35編21節) |
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「優れた会衆」や「偉大な民」というのは、どのような人たちの集まりでしょう。この言葉の中に、ユダヤの人たちの「選民意識」を感じてしまうのは、わたしの考えすぎでしょうか。 | ||||
「無実なわたしを」と主に向かって堂々ということが、果たして人間に可能なのでしょうか。イスラエルの王ダビデも、サムエル記下11章にあるようにウリヤの妻バト・シェバのことで大きな罪を犯しました。 | ||||
「この目で見た」という言葉は、「そら、そら、それ見たことか!」という嘲笑の言葉だそうです。この「敵対者」と呼ばれる人たちは、もしかしたら作者の心の中をよく知っているのかもしれません。 | ||||
3月 22日「詩編35:22〜28」 | ||||
わたしが正しいとされることを望む人々が 喜び歌い、喜び祝い 絶えることなく唱えますように「主をあがめよ 御自分の僕の平和を望む方を」と。 (詩編35編27節) |
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詩編の中には、敵対者が取り除かれえることが祈りの成就、つまり困難からの解決であると考えているものが多くあります。そのため、一方的な平和や正義に立ってしまうこともあるようです。 | ||||
世界には多くの争いがあります。どちらも自分の正義に立って、戦っています。でもそれは神さまの目から見たら、どちらも正しく、どちらも間違っているのかもしれません。どちらか一方のみを支持する人も、同じことです。 | ||||
「主の平和」が本当の意味で訪れますように。裁きや排除ではなく、そのことを祈ることができるように。そう願います。神さまの正しさによって、神さまのみ心がおこなわれるようにと祈りましょう。 | ||||
3月 23日「詩編36:1〜5」 | ||||
神に逆らう者に罪が語りかけるのが わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。 (詩編36編2節) |
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「悪人の悪意、神の摂理」:個人的な救いを求める祈りです。この5節までの部分には、神さまに逆らう悪人の描写が書かれています。2節の「罪が語りかける」という表現が心に刺さります。 | ||||
創世記の4章に、カインとアベルの物語が載せられています。カインは自分の供え物に主が目を留められなかったことに激しく怒り、顔を伏せました。そのときに主は、「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める(創4:7)」と語りかけます。 | ||||
しかしカインは弟アベルを殺害してしまいます。罪が自分の中に入ってくることを、カインは止めることができなかったのです。わたしたちに罪が語りかけてきたときに、わたしたちはどう対処できるのでしょうか。 | ||||
3月 24日「詩編36:6〜13」 | ||||
命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る。 (詩編36編10節) |
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6〜7節において、作者は神さまの偉大さを賛美します。わたしたち人間はときに、自分たちの造った建造物(東京スカイツリーやあべのハルカスなど)を見て、「すごいなあ」と感動します。 | ||||
しかし神さまが造られたあらゆる物の見事さに比べたら、どうでしょうか。「命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る」との言葉は、すべてのことを神さまに依存する、そのような信仰の告白です。 | ||||
そして11節以降には、願いが書かれていきます。わたしたちは何を土台として生きているのか。そして何に依存し、どのような希望を持っているのか。その上で、神さまに願い求めていくのです。 | ||||
3月 25日「詩編37:1〜11」 | ||||
沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や 悪だくみをする者のことでいら立つな。 (詩編37編7節) |
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「義人と悪人の行く末」:牧会的な詩編です。教示的なアルファベット詩であり、悪人を打ち倒し義人に報いてくださる主への信頼と忍耐を教える詩となっています。不条理に対する疑問に答える形にもなっていると言えるでしょう。 | ||||
最初の1〜9節は、かなり命令調になっています。「いら立つな」、「うらやむな」、「ゆだねよ」、「まかせよ」といった言葉が並びます。作者の周りには、もう我慢の限界だという人たちも多くいたのでしょう。 | ||||
その中で、「主に望みをおく人は、地を継ぐ」という言葉がでてきます。地とは約束の地を示していますが、希望を象徴的に表す言葉でもあります。その希望を確かなものとするために、わたしたちはどうあるべきかを教えるのです。 | ||||
3月 26日「詩編37:12〜20」 | ||||
しかし、主に逆らい敵対する者は必ず滅びる 献げ物の小羊が焼き尽くされて煙となるように。 (詩編37編20節) |
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ここから主に従う人と主に逆らう人との、具体的な対決が書かれていきます。主に逆らう人は、たくらみ、牙をむき、剣を抜き、弓を引き絞ります。このような敵対関係にある相手を想像することは、わたしたちには難しいかもしれません。 | ||||
しかし詩編の多くは、現実の敵の脅威にさらされている中で読まれていたことも、忘れてはなりません。そして今も、世界の各地で争いが起こり、どうしようもない状況の中で神さまにしか頼ることのできない人たちが大勢いるのです。 | ||||
そのような時に人々は、敵対者が神さまによって滅ぼされるのを願ってきました。しかしその思いが戦争へとつながっているという事実も否めません。献げ物の小羊が煙となるように敵対者がなることを、心から願ってよいのでしょうか。 | ||||
3月 27日「詩編37:21〜26」 | ||||
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。 (詩編37編24節) |
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22節に、「神の祝福を受けた人は地を継ぐ。神の呪いを受けた者は断たれる」という言葉があります。神さまから祝福されたイスラエルの人々には、約束の地が与えられるという希望がありました。 | ||||
ただそれは、イスラエルの人を一方的に「正義」と見たときです。その土地に以前から住んでいる人にしたら、その希望は悪夢に変わってしまいます。さらに信仰の違いを、「主への反乱」だとされたら、たまったものではないでしょう。 | ||||
詩編を読むときも、世界の情勢をみるときも、どちらか一方に偏った見方ではなく客観的に見る習慣をつけていきたいものです。「神さまは悪人にも善人にも雨を降らせてくださる」ことを忘れてはなりません。 | ||||
3月 28日「詩編37:27〜31」 | ||||
主は正義を愛される。主の慈しみに生きる人を見捨てることなく とこしえに見守り 主に逆らう者の子孫を断たれる。 (詩編37編28節) |
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「主は正義を愛される」という言葉が出てきます。ただ「正義」といっても、なかなか難しいものです。「自分が正しい」と思っていても本当にそうなのかはわかりませんし、その思いを押し通そうとすると軋轢が生まれていくのも事実です。 | ||||
30節に、「主に従う人は、口に知恵の言葉があり その舌は正義を語る」とあります。知恵は神さまから与えられるものです。自分の思いではなく神さまからの知恵に頼るときに、本当の正義は近づいてくるのかもしれません。 | ||||
神さまに対する信頼の中で、神さまの教えを心に抱くことが大切です。神さまの教えを知るために、聖書を読むことと日々祈ることを大事にしていきましょう。そしてまっすぐに神さまを見上げて、歩んでいきましょう。 | ||||
3月 29日「詩編37:32〜40」 | ||||
主は彼を助け、逃れさせてくださる 主に逆らう者から逃れさせてくださる。主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。 (詩編37編40節) |
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詩編37編は、40節で終わります。ヘブライ語のアルファベットは22文字ですから、「アルファベットによる詩」としては計算があいません。二つの節をまとめた20の段落の最初を、20の文字で書いているようです。つまり2文字は使わなかったということです。 | ||||
「いろは歌」や「カルタ」においても、「ん」などどうやって使ったらいいのか悩む文字もあります。詩編でも教育が第一目標でしたので、細かいところは気にしなかったのかもしれません。 | ||||
そして最終の39〜40節には、信仰を避けどころとすればよいという、大きな慰めが与えられます。そこに逃れた人を、主は救ってくれるのです。わたしたちが自ら戦い、勝利する必要はありません。 | ||||
3月 30日「詩編38:1〜5」 | ||||
わたしの肉にはまともなところもありません あなたが激しく憤られたからです。 (詩編38編4節) |
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「病んでいる罪人の祈り」:個人的な嘆願です。病者によって用いられる、救いを求める祈りとなっています。表題にある「記念」とは、和解の献げ物の記念の分であるとか、葬儀のときに使われた用語ではないかと考えられています。 | ||||
タイトルに「病んでいる罪人」とあるように、詩編では病気と罪とが結び付けられることがあります。福音書の中にもそのような考え方をする人に対し、イエス様が否定したという物語がありました。(ヨハネ9:1〜12) | ||||
罪のために神さまがお怒りになるから、人は病気になるのだということを、イエス様は否定されました。しかしわたしたちの罪を、神さまは決して喜ばれていないだろうとも思います。その思いの中で、この詩編を読んでいきましょう。 | ||||
3月 31日「詩編38:6〜9」 | ||||
もう立てないほど打ち砕かれ 心は呻き、うなり声をあげるだけです。 (詩編38編9節) |
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この詩編38編は、大斎節(レント)に読まれることの多い詩編です。大斎節には自らを振り返り、思いと言葉と行いによって罪を犯し続ける自分自身の姿と向き合います。自分の罪を認めることは。とても辛いことです。 | ||||
特に病に冒され苦しいときに、「それはお前が悪いことをしたからだ」と他人に言われたら、それはとても悲しいと思います。しかしイエス様の時代のユダヤ教では、そのような会話が当たり前のようになされていました。 | ||||
ただ病気は身体をむしばんでいきます。肉体だけでなく、心も痛めつけていきます。この詩編が伝えたいのはそれが自業自得だということではなく、そのときにこそ神さまに頼りなさいということなのでしょう。 |