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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2025年3月11日〜20日

3月 11「詩編3215
 わたしは罪をあなたに示し 咎を隠しませんでした。わたしは言いました 「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを 赦してくださいました。
(詩編32編5節)
「罪が赦された喜び」:悔い改めの詩編です。マスキールという言葉には「指揮」のほか、「教訓」という意味もあります。悔い改めの実践を教訓として教える、そのような詩だということでしょう。
悔い改めで大切なことは、自分の罪や咎を隠すことなく、神さまの前にさらけ出すことです。神さまに何度も背いてきた自分を振り返り、そのことをきちんと告白することです。そのときに神さまは、手を伸ばされるのです。
1節に、「背きを赦され、罪を覆っていただいた者」と書かれています。神さまは罪深いわたしたちを、そのままの姿で受け入れてくださいます。白い衣をかぶせるように、わたしたちを覆い、包み込んでくださるのです。
3月 12詩編32611
 わたしはあなたを目覚めさせ 行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
(詩編32編8節)
悔い改めて罪の告白をした者が赦されるとき、そこには何が待っているのでしょうか。わたしたちが神さまを見失い、自分勝手に歩いている姿を聖書では、「目の見えない」と表現することがあります。
どこに行けばよいかわからず、ただやみくもに歩き回っている状態。それどころか一歩も動くことができずに、うずくまっている状況。その「目の見えない」わたしたちを目覚めさせ、行くべき道を教えて下さるのが神さまです。
赦しによって、わたしたちと神さまとの関係は回復します。そのことを知ったときに、わたしたちは喜びの声をあげることが許されるのです。これこそが神さまの約束された導きなのです。
3月 13詩編33111
 主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。
(詩編33編1節)
「創造主の摂理の賛歌」:ほめ讃える賛美詩編です。「主に従う人よ、主によって喜び歌え」という言葉を聞くと、聖歌457番「主に従い行くは」を思い出すという方もおられるのではないでしょうか。
主に従い行くことは、どんなに喜ばしきことでしょう、どんなに幸いなことでしょう、どんなに心強いことでしょう、と歌うこの聖歌は、主こそ信頼と希望を置くことができるお方だと歌う詩編33編と共鳴するようです。
「十弦の琴を奏でて」とあるように、この詩編は神さまをほめ讃えるために多くの人たちによって歌われてきました。「み跡を踏みつつ 共に進まん み跡を踏みつつ 歌いて進まん」とわたしたちも賛美しましょう。
3月 14詩編331215
 人の心をすべて造られた主は 彼らの業をことごとく見分けられる。
(詩編33編15節)
昨日の箇所の後半から、作者は主を様々な形で賛美します。まず天地を造り、支配される方として。次に国々と諸国の民の神として。そして今日の箇所では人を治める神としてあがめていきます。
今日の箇所に、「人の子らをひとりひとり御覧になり」、「地に住むすべての人に目を留められる」と書かれています。イエス様がペトロたち漁師を弟子として招いたとき、イエス様は彼らを「御覧になった」そうです。
神さまのみ心は、わたしたち一人ひとりの心に向けられているのです。神さまは決して遠い存在ではありません。わたしたちのすぐそばにいて、わたしたちに目を向けられる方だということを、心に留めたいと思います。
3月 15詩編331622
 王の勝利は兵の数によらず 勇士を救うのも力の強さではない。
(詩編33編16節)
わたしたちはしばしば、世俗的な価値観や人間的なものに頼ってしまうことがあります。お金や地位、財産などなど。それらの物に頼るのは、兵や馬の数に頼って勝利を願うことと変わらないのかもしれません。
この詩編33編は、主に従うことの喜びからスタートしました。主は救いの神さまであるから、魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくれるのだという信仰(信頼)の中で、わたしたちは歩んでいくのです。
「心の空晴れて 光は輝るよ」、「悪しき思い消えて 心は澄むよ」、「恐れのかげ消えて 力は増すよ」と聖歌457番で歌うように、神さまがわたしたちに希望を与えて下さるようにと祈っていきましょう。
3月 16詩編3418
 わたしは主に求め 主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。
(詩編34編5節)
「救われた者の感謝と教え」:個人的な救いへの感謝です。この詩はアルファベットによる詩です。つまりいろは歌のような教示的内容になっています。また表題には詳しく、詩が読まれたときの状況が書かれています。
「ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに」と書かれていますが、これはサムエル記上21章11〜16節の記述が元になっています。ただしダビデが恐れたのはアビメレクではなく、ガトの王アキシュですが。
主に頼るしかないその状況を、詩編では「貧しい人」と表現します。自分の力で歩むことができないことを知ったときに、本当の意味で主にすべてを委ねることができるのです。このことを覚えながら、聖歌571番を歌ってみてもいいかもしれません。
3月 17詩編34915
 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
(詩編34編9節)
9節の「味わい、見よ」とは、あなたも経験してみなさいという意味だそうです。わたしたちが主の恵みの深さを知るのは、どのようなときでしょうか。一つは聖餐式ではないかと思います。
聖餐式の聖歌に、「カルバリの木にかかり(251番)」というものがあります。イエス様の十字架を覚えながら、そのことによってわたしたちに与えられた喜びの食卓を囲み、共に祝いましょうという歌です。
その4節はこのような歌詞です。「いつくしみ深き主よ み座近くわれを召し とこしえに待ち望む 命の糧与えて 悪を捨て喜びて つねに主におらしめよ」。主の食卓を囲むとき、わたしたちは神さまの恵みのシャワーを浴びるのです。
3月 18詩編341623
 主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は 罪に定められることがない。
(詩編34編23節)
20節に「主に従う人には災いが重なる」と書かれています。いくら善い行いを重ねていても、いつも幸せであることはありません。それどころか従うことによって、多くの困難が降りかかってくるようにも思います。
わたしたちは知らず知らずのうちに、祈りや献金によってどれだけ「ご利益」があったかと、計算してしまうこともあるかもしれません。しかし神さまをそのように測ることは、果たして正しいことなのでしょうか。
「主はそのすべてから救い出し 骨の一本も損なわれることのないように 彼を守ってくださる」、これがこの詩の一番伝えたかったことです。神さまは愛のお方です。わたしたちを決して見捨てはしない。そのことを心から信じていきたいものです。
3月 19詩編3516
 わたしに追い迫る者の前に 槍を構えて立ちふさがってください。どうか、わたしの魂に言ってください 「お前を救おう」と。
(詩編35編3節)
「不当に訴えられた者の祈り」:個人的な救いを求める祈りです。この詩の中で作者は、武装した敵からの救いを求めています。主に対して、「戦ってください」、「助けてください」、「立ちふさがってください」と願うのです。
わたしたちは祈りの中で、「あの邪魔な人の存在を消してください」とは祈らないと思います。しかし個人的な救いを求めるがあまり、どこかで「敵」を排除したいという気持ちが出て来るかもしれません。
イエス様は敵のためにも祈りなさいと命じられました。そしてご自分は十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。このイエス様の姿を、わたしたちは忘れてはならないと思います。
3月 20詩編35717
 わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から 貧しく乏しい人を搾取する者から 助け出してくださいます。」
(詩編35編10節)
昨日に続いて今日の箇所も、作者は敵対者が貶められるようにと祈ります。作者は敵対者が病気になっていたときに、断食し、祈り、嘆いていました。ところが作者が病気になったときには、敵対者は喜んだそうです。
誰かのために祈っていても、その気持ちがきちんと伝わらなかったり、また裏切られたりすることはよくあります。「どうして分かってくれないんだろうか」と悲しくなることもあります。
敵対者を毒麦とするならば、「神さま、すぐにこの毒麦を抜いてしまってください」と作者は叫んでいるのです。しかしイエス様は言われました。「毒麦も、育つままにしておきなさい」と。すべてのことを神さまにお委ねするのです。

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