2月 21日「詩編24:7〜10」 | ||
城門よ、頭を上げよ とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。 (詩編24編7節) |
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この詩編は、神殿の境内に神の箱(契約の箱)を入れる時に歌われていたようです。昨日読んだ前半部分では「世界の所有者は誰か」、「わたしたちは何者なのか」ということが語られ、今日の箇所では「王とはどのような方なのか」について語られていきます。 | ||
「万軍の主」、それが神さまの称号です。わたしたちに先んじて歩まれ、わたしたちの敵を討ち滅ぼし、わたしたちを神さまの元に導いてくださる。ただこの考え方が、様々な誤解を生んだことも確かです。 | ||
わたしたちが以前用いていた古今聖歌集にあった「立てよいざ立て」、「見よや十字の旗高し」は、今の聖歌集には入っていません。戦争を思い浮かべるからでしょうか。あくまでも神さまと共に戦う霊的な戦いなのだと思うのですが。 | ||
2月 22日「詩編25:1〜7」 | ||
あなたに望みをおく者はだれも 決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。 (詩編25編3節) |
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「保護と罪の赦しを求める祈り」:救いを求める個人の祈りです。各節の冒頭の語句がアルファベット順に配列された教示的な詩編でもあります。冒頭の言葉をアルファベット順にすることで、暗唱を助けたと言われます。 | ||
最初の場面で、手を天に向かって伸ばし、高く上げる場面が描かれます。これは嘆願の祈りの姿勢です。わたしたちは祈りというと頭を下げ、体を丸めておこなうイメージがあるかもしれません。 | ||
しかしこの時代、祈りは手を上げた状態でおこなわれていました。魂を高く上げる、自らの生命をもささげるという気持ちで祈っていたようです。一度、わたしたちも試してみてもいいかもしれませんね。 | ||
2月 23日「詩編25:8〜14」 | ||
裁きをして貧しい人を導き 主の道を貧しい人に教えてくださいます。 (詩編25編9節) |
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昨日も書きました通り、この詩編25編はアルファベットによる詞です。そのような詩が、詩編の中にはいくつかあります。しかしそのすべての詩編で、アルファベットを全部用いているわけではありません。この25編も「ベート」と「ワウ」と「コフ」がありません。 | ||
つまりこれらの詩編の目的は文字の暗記よりも、全体を思想的に統一させていることにあるようです。「ご当地かるた」や「聖書かるた」が「あ」から「わ」を用いて、統一的な内容を伝えようとしていることに近いかもしれません。 | ||
そしてこの25編における思想は、「主は苦しむ者、そして罪人を導かれる」ということです。罪をきれいに洗い流し、真っ白にならないと主の元に行けないのではありません。罪人のままの、そのままのわたしたちを受け入れて下さるのです。 | ||
2月 24日「詩編25:15〜22」 | ||
御もとに身を寄せます。わたしの魂を守り、わたしを助け出し 恥を受けることのないようにしてください。 (詩編25編20節) |
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詩編25編は、個人的な嘆願の歌です。「わたしは貧しく、孤独です」、そして「御覧ください、わたしの貧しさと労苦を」という言葉があります。「貧しい」という言葉は、山上の説教の「心の貧しい人々は幸いである(マタイ5:3)」という言葉を思い出します。 | ||
聖書の「貧しい」とはちょっとした困窮ではなく、まったく何もない状態を指します。カラッカラ、すっからかんの状態です。神さまの恵みを求めるしか歩む術がない、すがるしかない、そんな状態です。 | ||
作者は貧しく、罪深い自分であったとしても、主は必ず守ってくれると望みを置きます。そしてその願いは、最終節で民全体のものへと置き換わっていくのです。個人の祈りが、共同体を思う祈りに変わっていく。わたしたちの祈りもそうありたいものです。 | ||
2月 25日「詩編26:1〜5」 | ||
主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。 (詩編26編1節) |
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「罪なき者の祈り」です。「お守りください、主よ。わたしは正しいのですから」というこの祈りは、ともするとイエス様が批判したファリサイ派の祈り(ルカ18:9〜14)と同じように聞こえてしまうかもしれません。 | ||
この祈りは、誤って起訴された人や敵対する人に訴えられた人が、身の潔白を表明する言葉のようです。しかしあまりにも自分を正しい者として押し出しているために、間違った言葉に聞こえてしまうのです。 | ||
偽る者や主に逆らう者と共に座ることをしないと宣言するのではなく、自分もそのような一人であることを感じ、そのような人とも共に座ることができればと思います。ただそうも言っておられない現実も、よく分かります。 | ||
2月 26日「詩編26:6〜12」 | ||
わたしの魂を罪ある者の魂と共に わたしの命を流血を犯す者の命と共に 取り上げないでください。 (詩編26編9節) |
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詩編26編1節には「わたしは完全な道を歩いて来ました」、11節には「わたしは完全な道を歩きます」という言葉が出てきます。「完全無欠な自分」を神さまの前で表明しているわけです。 | ||
昨日も書きましたが、自分が完全であると言えば言うほど、その言葉は間違ったもののように聞こえます。イエス様の前でユダヤ人の宗教指導者たちが叱られたように、あまりよくないもののようにも感じます。 | ||
しかしある方はこの詩編を読んで、こう言われました。「これは完全さへの努力目標である」と。確かに完全な自分にはなれないかもしれません。しかしそこで何もかも諦めてしまうのではなく、少しでも近づけるようにする。そこが大切なのかもしれません。 | ||
2月 27日「詩編27:1〜6」 | ||
主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦 わたしは誰の前におののくことがあろう。 (詩編27編1節) |
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「主とともに住む望み」:救いを求める祈りです。聖歌28番の一節に、「わが魂(たま)の光 救い主イェスよ 近くましまさば 夜も夜にあらじ」という歌詞があります。これは詩編27編の1節を元に書かれています。 | ||
主はわたしの光であり、救いであり、砦である。その主への信頼があるから、夜の闇も怖くはないというのです。多くの人に愛されているこの詩編27編は、本当の信仰とは何かをわたしたちに教えてくれます。 | ||
さらにこの詩編の今日の部分は、周りにいる他の人たちに対してなされる信仰の告白だともいえます。そのため詩編23編同様、多くの聖歌で用いられています。「主の家に宿る」喜びを、共に歌うのです。 | ||
2月 28日「詩編27:7〜14」 | ||
心よ、主はお前に言われる 「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。 (詩編27編8節) |
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詩編27編の前半では、主への信頼を熱く語っていました。それに対して後半では、願いや希望を述べます。「わたしに答えてください」、「退けないでください」、「離れないでください」、「見捨てないでください」という祈りは、とても切実なものです。 | ||
聖歌472番に「ここに祈りの家がある」という歌があります。3節の歌詞を紹介します。「生かされていると知るときに 喜び悲しみ憂いをも み旨と信じて受け入れられる すべては神の愛と知る」。 | ||
どんなに苦しい時にも、主は来てくださる。いや、苦しい時だからこそ、きっと主は来てくださる。その信頼に立つときに、わたしたちは強く、雄々しくなれるのです。主を待ち望みましょう。 |