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日ごとの聖書

ショートメッセージ ~2025年2月11日~20日

2月 11「詩編20710
 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。
(詩編20編8節)
「戦車を誇り、馬を誇る」、今で言うと「核保有数を誇り、ミサイルの射程距離を誇る」ということになるのでしょうか。人々はその歴史の中で、「敵より優れた」自分たちを誇り、戦いを続けてきました。
しかし本当の勝利は、相手が滅ぼされることでも、自分たちの名が世界にとどろくことでもありません。すべての人たちが主のみ名を唱えること、神さまをほめたたえることができれば、本当の神さまの平和が訪れるように思います。
しかしその中で、自分の信じる「主」を押し付け、相手の信じる「主」を否定し続けてしまうと、そこには平安はありません。争いは、相手の否定から始まると思います。違いを受け入れることが、何よりも必要なのです。
2月 12詩編2118
 御救いによって王の栄光は大いなるものになる。あなたは彼に栄えと輝きを賜る。
(詩編21編6節)
「王のための感謝」:王の即位式に歌われた詩編です。イギリスのチャールズ国王は2022年に即位し、翌2023年に戴冠式にのぞみました。日本聖公会は英国国教会の流れを汲んでいますので、その式(礼拝)を身近に感じた方もおられたでしょう。
式の中で黄金の冠が王の頭に置かれます。ここで大切なことは、王のすべての権威は神さまにのみ由来するということです。王は自分の力ではなく、神さまの力にすべての信頼を置くのです。
その「神への全き信頼」を見て、人々は神さまを褒めたたえるのです。王も国も、神さまの慈しみに支えられて初めて、正しい方向に進むことができる。その関係をしっかりと心に留めて歩むこと。国の為政者だけでなく、わたしたちも覚えておきたいところです。
2月 13詩編21914
 御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。
(詩編21編14節)
王の即位式の最後の場面です。どうしても「敵」と書いてあると、敵国を想像してしまいます。しかし「悪い思い」や「神さまに背くこと」など、自分の弱さに置き換えて読むと、少し違ったイメージを持つことができるかもしれません。
理想的な王とは、どういう方でしょうか。あらゆる敵を蹴散らし、自分の民に幸福を与える人でしょうか。聖書は注意して読まないと、そのような「自分たちだけの救い」を求めてしまうことになります。
実際、イエス様の時代のユダヤ人もそうでした。しかし神さまのみ心は、もっと広いところにあります。すべての人を導く王として、イエス様は来られました。その王と共に、わたしたちもまた賛美の歌を歌いたいと思います。
2月 14詩編2213
 わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
(詩編22編2節)
「僕の苦しみと国々の救い」:嘆願の詩、救いを求める祈りです。今日から5日間で、詩編22編を読んでいきます。「暁の雌鹿に合わせて」とは、当時よく知られていた歌の調べに合わせて歌うということのようです。
マタイ福音書27:46にこのような記述があります。「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」
このイエス様の十字架上での言葉は、この詩編の冒頭のものです。詩の最初を引用するということは、詩全体を引用することを意味します。ではイエス様は十字架上で何を伝えようとされたのか。この詩を読みながら受け取っていきましょう。
2月 15詩編2249
 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら 助けてくださるだろう。」
(詩編22編9節)
昨日の箇所では嘆いた作者ですが、4~6節では主への信頼を歌います。目の前の苦難に恐れ戸惑いながらも、神さまへの信頼を忘れない。十字架上でのイエス様も、そのような心境であったようです。
「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。(マタイ27:39)」、「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。(マタイ27:43)」
イエス様の十字架の場面が、この詩の中にすでに描かれています。この詩編22編を祈ることは、イエス様の受難のシナリオをなぞることです。だから復活前主日や受苦日には、この詩編を唱えるのです。
2月 16詩編221019
 わたしを遠く離れないでください 苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
(詩編22編12節)
この詩の12節と20節には、「わたしを遠く離れないでください」という願いが出てきます。主への信頼を語りながらも、「なぜわたしをお見捨てになるのか」という嘆きが顔を出すからです。わたしたちにも経験があると思います。
イエス様は十字架の上で、この詩を祈られました。苦難が近づく、それは死が近づいてきたことを意味します。「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、(マタイ27:35)」という状況も、イエス様はご覧になります。
イエス様が苦しみの中で祈り続けられたのは、わたしたちの苦しみや祈りもその身に引き受けるためでした。「どうして神さまは応えてくれないのか」というわたしたちの思いを背負い、共に祈るためだったのです。
2月 17詩編222026
 主よ、あなただけは わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ 今すぐにわたしを助けてください。
(詩編22編20節)
「わたしを遠く離れないでください」、その祈りは叶えられたのでしょうか。イエス様の十字架の場面を間近で見ていた多くの人たちは、イエス様は神さまに見捨てられたのだと思いました。
しかし23節から、詩は一変して救いへの賛歌になります。神さまはおられなかったのではなく、確かに働いておられるという確信を得、感謝の祈りを唱えるのです。イエス様はそのことを知り、「成し遂げられた」と祈るのです。
この光景を見て、一人の百人隊長は言いました。「本当に、この人は神の子だった」と。ただ苦しみを嘆いたのではなく、その中で神さまに対して信頼し、そして神さまが共におられることを知り、感謝する。イエス様はそのことをわたしたちに示されました。
2月 18詩編222732
 地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。
(詩編22編28節)
「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか」という主への嘆きから始まった詩編22編ですが、「わたしの魂は必ず命を得」という救いの確信をもって終わります。
イエス様は十字架の上で、わたしたちの代わりに神さまを求め、嘆きの声をあげられました。しかしその行く道は苦しみではなく、救いにつながっているのだということを示してくださったのです。
神さまを求めて救いを願うすべての人と、イエス様は十字架を通して一つになられました。この詩編22編を読むときにはイエス様の受難を覚えるとともに、わたしたちの痛み、苦しみを担ってくださる姿を思い起こしましょう。
2月 19詩編23
 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。
(詩編23編4節)
「イスラエルの牧者」:神への感謝・信頼の歌です。ただわたしたちはこの「羊飼い」をイエス様に置き換え、詩編23編を読むことが多いと思います。羊は大変弱い動物で、自分の力だけでは生きていくことができないそうです。
羊飼いが草原やオアシスに導き、敵から守り、いつも見守ってくれるからこそ、羊たちは歩んでいくことができる。そしてその羊こそ、わたしたちの姿なのです。昔からこの詩編は、多くの人に愛されてきました。
この詩編を元にした聖歌は7曲(246、461、462、520、524、544、553)もあります。その中でも有名なのが、「飼い主わが主よ(聖歌462番)」でしょう。「われらは主のもの 主にありて生く」のです。
2月 20詩編2416
 それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく 欺くものによって誓うことをしない人。
(詩編24編4節)
「主の荘厳な入城」:主の王権を歌った詩で、礼拝の中で用いられていたと考えられています。1節と2節で世界の所有者は誰かと語り、3節から6節では会衆であるわたしたちはいったい何者なのかを語ります。
わたしたちのこの世界は、誰のものなのでしょうか。人間は長い間、大きな勘違いをしてきました。自然や動物たちを「支配」しているのは自分たちだと考え、好き勝手に破壊や開発などを繰り返してきたのです。
「すべてのものは神さまの物」、その思いを持って主の山であるシオンに向かいましょう。奈良基督教会には、シオンホールという会館があります。その場所で神さまのみ業を賛美し、主を求めていくことができればと思います。

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
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牧師:司祭マタイ古本靖久
副牧師:司祭エレナ古本みさ