2月 1日「詩編18:4〜7」 | ||||
苦難の中から主を呼び求め わたしの神に向かって叫ぶと その声は神殿に響き 叫びは御前に至り、御耳に届く。 (詩編18編7節) |
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昨日から読み始めた詩編18編は51節まであり、詩編の中でもとても長い部類に入ります。ここではこの詩を、昨日も含めて8日間かけて読んでいきます。昨日は神さまに対する賛歌でしたが、今日の場面では過去の苦悩を思い返しています。 | ||||
「死の縄」、「奈落」、「陰府の縄」、「死の網」という言葉が並びます。どれをとってもわたしたちの周りにはあって欲しくない、そのようなものです。しかしそれらが絡みつき、離れていかないというような経験をしたことはないでしょうか。 | ||||
真っすぐに歩くことができない。体や心が重く、希望を見いだせない。そのようなときにこそ、主を呼び求め、神さまに向かって叫ぶことが必要なのです。わたしたちの声は必ず、神さまの耳に届くのです。 | ||||
2月 2日「詩編18:8〜16」 | ||||
主は天から雷鳴をとどろかせ いと高き神は御声をあげられ 雹と火の雨が続く。 (詩編18編14節) |
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この時期、教会は「顕現節」という暦の中で礼拝をおこなっています。「顕現」とは、はっきりと姿を現すこと。あるいははっきりとした形で現れること。つまり神さまの恵みがわたしたちの前にはっきりと現されるという意味です。 | ||||
わたしたちの呼び求めに対して神さまが応えていく様子が、今日の箇所には書かれています。とても恐ろしい「怒り」の描写です。創世記や出エジプト記などで神さまが現れるときには、雷や雹や火がセットでした。 | ||||
しかし新しい約束(新約)になって、神さまは怒りよりも愛で包み込んでくださる方というイメージが強くなりました。同じように教会も、「裁きを与えるための神殿」から「喜びの幕屋」へと変えられているでしょうか。 | ||||
2月 3日「詩編18:17〜20」 | ||||
敵は力があり わたしを憎む者は勝ち誇っているが なお、主はわたしを救い出される。 (詩編18編18節) |
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わたしたちの前に顕現された神さまは、わたしたちをとらえ、大水の中から引き上げてくださいます。「引き上げる」という意味を持った名前を持つ、旧約聖書の人物がいます。それは出エジプトの指導者であったモーセです。 | ||||
モーセが生まれた頃、エジプトには「生まれてくるヘブライ人の男の子はすべて殺せ」という命令が出されていました。しかしモーセの母親は、赤ちゃんをパピルスの籠に入れて茂みに隠します。そしてそれを見つけたファラオの王女は、赤ちゃんを自分の子とします。 | ||||
王女は水の中から引き上げたので、赤ちゃんをモーセと名付けました。「水の中から引き上げる」ことは、命を与えることです。わたしたちの洗礼も、水の中に一度死に、引き上げられて新たな命を与えられるという意味を持ちます。神さまは救われるのです。 | ||||
2月 4日「詩編18:21〜25」 | ||||
主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。 (詩編18編21節) |
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今日の箇所には二度、「わたしの正しさ」という言葉が出てきます。神さまは正しい人に対して報い、救いをお与えくださる方だということです。この喜びの証しは、信仰告白だと捉えることもできます。 | ||||
神さまは正しいお方だから、わたしも正しくありたい。しかしその思いとは裏腹に、弱い自分に気づかされることも多くあります。自分の手が清いどころか、とても汚れていることも多々あります。 | ||||
聖公会の洗礼式の式文の中には、「神の助けによって」という言葉が多く用いられています。わたしたちは神さまの前に正しく「ありたい」と思うことが大切なのです。その思いを聞き、神さまはわたしたちを引き上げて下さるのです。 | ||||
2月 5日「詩編18:26〜31」 | ||||
神の道は完全 主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に 主は盾となってくださる。 (詩編18編31節) |
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神さまは普遍的な救いを与えてくださる。それがこの詩編の作者の信仰です。では自分が救いに導かれたときには、どうすべきなのか。昔読んだ「蜘蛛の糸」という芥川龍之介の短編小説を思い出しました。 | ||||
ある日お釈迦様が地獄を覗いていると、そこにカンダタという男がいました。彼は極悪人でしたが、一度だけ小さな蜘蛛を助けたことがありました。そこでお釈迦様は蜘蛛の糸を使ってカンダタを助けようとします。カンダタはその糸につかまり上っていきます。 | ||||
しかし他の罪人たちも一緒に糸につかまって上って来るのを見て、「やめろ」と叫んでしまいます。そのときに糸は切れたそうです。神さまはすべての人を救いに導こうとされている。そのことを忘れないでおきたいとおもいます。 | ||||
2月 6日「詩編18:32〜46」 | ||||
あなたは救いの盾をわたしに授け 右の御手で支えてくださる。あなたは、自ら降り わたしを強い者としてくださる。 (詩編18編36節) |
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「恵み深き主のほか たれかわれをなぐさめん わが主わが神 恵みたまえ ただ頼りゆく わが身を」、聖歌464番の1節です。英語では「I need thee every hour」と始まるこの聖歌は、多くの人に愛されています。 | ||||
聖歌の作詞者であるアニー・ホークスは、37歳のときに「主が近くにおられる」という感情があふれだし、この詩を書いたということです。それは彼女が妻として、また母として家事に追われていた日のことでした。 | ||||
喜びの時も悲しみの時も、神さまはわたしたちと共に歩んでくださる。その思いの中で書かれた詩は、多くの人たちの希望となり、慰めとなっていきます。神さまはわたしたちに生きる力を与えてくださる、そのことに感謝したいと思います。 | ||||
2月 7日「詩編18:47〜51」 | ||||
主よ、国々の中で わたしはあなたに感謝をささげ 御名をほめ歌う。 (詩編18編50節) |
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長かった詩編18編も、今日で終わりです。ちなみにこの詩編は51編まであって詩編の中で4番目に長いのですが、詩編119編はなんと176編まであります。119編は22日間かけて読む予定です。みなさん、ついてきてくださいね。 | ||||
「主は生きておられる!」と感じることがあります。イエス様は2000年前に十字架で息を引き取られましたが、復活されました。目には見えませんが、いろいろな場面で主の導きを感じることがあります。 | ||||
この詩はダビデが前の王サウルの手から逃れることができた、感謝の詩だと言われています。彼は何よりも神さまの救いのみ業に感謝し、み名をほめたたえます。この感謝の中でわたしたちも歩むことができれば、本当にうれしいことです。 | ||||
2月 8日「詩編19:1〜7」 | ||||
その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。 (詩編19編5節) |
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「創造主の導き」:日本聖公会で用いている祈祷書には、主日礼拝で用いる聖餐式の式文の他に「朝・夕の礼拝(祈り)」、「昼の祈り」、「就寝前の祈り」といった式文も載せられています。 | ||||
祈祷書は日々の祈りの中でいつも用いることができるように、(本来は)個人で持つべきものですが、その昼の祈り(祈祷書79頁)の中で唱えられているのがこの詩編19編です。お昼の太陽の下で、神さまの創造のみ業を賛美するのです。 | ||||
旅行に行ったり、普段とは違う道を通って目的地に行ったり、そのような中で目に飛び込んでくる景色に感動することがあります。そのようなときにはぜひ、この詩編を唱えましょう。それだけで神さまを賛美する「礼拝」となるのです。 | ||||
2月 9日「詩編19:8〜15」 | ||||
どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない 心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。 (詩編19編15節) |
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この詩編は、聖歌にも用いられています。聖歌332番です。「星は主の栄光 語り伝え 大空は み手のわざを告げる」。歌詞を読んだだけでメロディーが心に流れる、そんな方も多いのではないでしょうか。 | ||||
この詩は、黙想の中で書かれたものだとも言われます。神さまの大いなる業を褒め、また神さまの正しさに触れる中で自分の小ささに気づかされていく。その中でわたしはその喜びをどう語ればよいのだろうかと詩編の作者は考えます。 | ||||
この詩編の最後の15節を、説教前のお祈りとして用いる牧師が多くいます。わたしも言葉は多少変えていますが、祈ります。神さまのみ業を語るには、わたしはあまりにもちっぽけです。でもどうか、わたしの口を用いてください。そのように説教者は祈るのです。 | ||||
2月 10日「詩編20:1〜6」 | ||||
我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ 我らの神の御名によって 旗を掲げることができるように。主が、あなたの求めるところを すべて実現させてくださるように。 (詩編20編6節) |
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「王のための祈り」:王の詩編です。祈祷書122頁に、「国会、地方議会のため」、「行政のため」というお祈りが載せられているのをご存知でしょうか。「王のための祈り」というと、わたしたちの心には違和感が生まれるかもしれません。 | ||||
人間的な王を思い浮かべてしまうと、確かにそうでしょう。そのような王が戦いに勝つということは、どこかの国が敗れ、また多くの人々が傷つくということを意味するからです。 | ||||
しかし王にしろ、国会・地方議会にしろ、行政にしろ、神さまがその中におり、知恵を与えてくださるようにと祈るのは、とても大切なことです。すべてのことは、「主のみ旗」の元でおこなわれるということを、心から願いましょう。 |