1月 21日「詩編11編」 | ||||
主は正しくいまし、恵みの業を愛し 御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。 (詩編11編7節) |
||||
「義人の主に対する不動の信頼」:神さまに対する個人的な信頼の歌です。社会の道徳的秩序がおかしくなっている中で、誰に信頼を置くのかということをこの詩はわたしたちにも問いかけてきます。 | ||||
作者が6節に書く「杯」とは、神さまが定めたそれぞれの人の運命のことです。イエス様がゲツセマネの園で、「できることならこの杯を取り除いてください」と祈った場面が思い起こされます。 | ||||
わたしたちの周りにも、不正や不法がはびこっています。その中でわたしたちは、どこに信頼を置くのか。安易に山に逃れてるのか、それとも主を避けどころとして立ち続けていくのか。わたしたちの信仰が問われているようにも思います。 | ||||
1月 22日「詩編12:1〜5」 | ||||
主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え 人の子らの中から 信仰のある人は消え去りました。 (詩編12編2節) |
||||
「悪い舌と主の清い言葉」:悪が社会にまん延する中にあって、主の救いを求めた祈りです。わたしたちが今住んでいる世の中は、闇バイトによる強盗やオレオレ詐欺、消えることのない暗いニュースなど、悪がすべてを支配しているかのように思われます。 | ||||
悪は、人の唇と舌と心を使って入り込んでくると作者は書きます。言葉を巧みに用いて人を騙し、また二つの心を使い分けて近づいてくるのです。わたしたちにもそのような経験はないでしょうか。 | ||||
そのときにこそ、主にのみ信頼を置き、「お救いください」とすがりつく信仰が必要なのです。「正しい人がいない」と嘆き続けるのではなく、神さまはきっと何とかしてくださるに違いないという強い思いを言葉にするのです。 | ||||
1月 23日「詩編12:6〜9」 | ||||
主に逆らう者は勝手にふるまいます 人の子らの中に 卑しむべきことがもてはやされるこのとき。 (詩編12編9節) |
||||
昨日の箇所の続きです。この世の悪を嘆く作者は、主への信頼を歌っていきます。「虐げに苦しむ者」は、「哀れなもののすすり泣き」とも訳されます。誰にも聞こえないようなすすり泣く声にさえ、神さまは耳を傾けてくださるのです。 | ||||
また主の仰せは清く、土の炉で七たび練り清めた銀だと言います。銀は精錬されればされるほど、その純度は高くなっていきます。神さまの言葉もそのように純粋で、信頼に値するものだという意味に取れます。 | ||||
信仰者はただ神さまを信頼し、祈るのみです。その祈りを神さまは聞かれ、救いを与えられるのです。この救いとは、「安全な場所に避難させること」という意味も含むそうです。神さまがわたしたちをみ翼の陰に置いてくださる、そんなイメージでしょうか。 | ||||
1月 24日「詩編13編」 | ||||
いつまで、わたしの魂は思い煩い 日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。 (詩編13編3節) |
||||
「痛みに耐えかねた人の祈り」:詩編の中で最も短い「救いを求める祈り」です。しかし短い中にありながらも、この詩は個人の嘆きの歌の典型とされています。つまりこの詩のように、わたしたちにも祈りなさいということです。 | ||||
「いつまで」という言葉が、この詩の前半に目立ちます。神さまに祈っても、祈っても、なかなか苦しみから抜け出せないことはよくあります。そのようなときにわたしたちは「いつまで」と、神さまに問いかけていきます。 | ||||
ともすれば、神さまを自分の思うままに操ろうとしているように感じるかもしれません。しかし作者は最後の節で、「あなたの慈しみに寄り頼みます」と書きます。「いつまで」という希望はいつの日か必ず叶い、喜び踊る日が来ることを信じて待つのです。 | ||||
1月 25日「詩編14編」 | ||||
神を知らぬ者は心に言う 「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。 (詩編14編1節) |
||||
「神を信じない輩」:悪を前にした神に従う人々を力づける詩です。「神などいない」という言葉は、無神論者を指しているのではありません。これだけ悪いことをしても、神さまは自分を裁くことなどできないだろうと考えている人たちです。 | ||||
「そんなことしたら、バチが当たるよ」、よく子どもの頃に言われていた言葉です。わたしの実家はキリスト教ではなく、神さまというのは「おてんとさま」のようなイメージでした。わたしは日々見張られているように感じ、こっそり悪いことをしていました。 | ||||
もしも神さまがすべてを裁かれるとしたら、誰一人として救いに与ることはできなくなります。パウロはローマの信徒への手紙3章13〜18節でこの詩編を引用し、「正しい者は一人もいない」と書きました。神さまは裁き主ではなく、愛の方なのです。 | ||||
1月 26日「詩編15編」 | ||||
金を貸しても利息を取らず 賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は とこしえに揺らぐことがないでしょう。 (詩編15編5節) |
||||
「主の客の資格」:教訓詩編です。この詩編は神殿の中庭に入る際の礼拝式文として用いられるために、作られたのではないかと考えられています。神さまのみ前に正しい者であるかどうかを、問うのです。 | ||||
しかし2節から5節の前半に書かれている「完全な道を歩く」、「正しいことを行う」、「心に真実の言葉がある」、「舌に中傷をもたない」、「友に災いをもたらさない」などなど、すべて守れる人はいるのでしょうか。 | ||||
昨日の14節で「善を行う者はいない。ひとりもいない」と言っておきながら、矛盾しているようにも感じます。しかしできないからと最初から諦めてしまうのではなく、何とか頑張ろうとする思いが大切なのかもしれません。 | ||||
1月 27日「詩編16:1〜6」 | ||||
主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」 (詩編16編2節) |
||||
「主はわたしの受け継ぐ永遠の宝」:主への信頼の歌です。表題にある「ミクタム」というのは、「苦しめられている」という意味だそうです。したがってこれは、ダビデが苦しみの中で歌った歌だとされています。 | ||||
3節の「この地の聖なる人々」や「尊い人々」とは、異教の神々を指しているそうです。偽りの神々や偶像にひれ伏すことなく、主なる神さまを信じ、神さまに信頼を置くという決意が歌われているのです。 | ||||
聖書における「信頼」とは、ちょっとした安心感を得ることやホッと一息つける場所にいることというのではなく、神さまに心と思いとを開放するという能動的なことです。神さまのみ手にすべてを委ね、与えられた場所で歩んでいくことが大切なのです。 | ||||
1月 28日「詩編16:7〜11」 | ||||
わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。 (詩編16編8節) |
||||
ペトロは使徒言行録2章25〜32節の説教の中で、この箇所(16:8〜10)を引用してこのように語っています。「ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。 | ||||
だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』 | ||||
パウロも使徒言行録13章35〜37節の中で、16:10を引用しています。詩編は多くの人々によって歌われ、そしてその信仰が受け継がれていったということがわかります。あなたの愛唱詩編は何編でしょうか。 | ||||
1月 29日「詩編17:1〜5」 | ||||
主よ、正しい訴えを聞き わたしの叫びに耳を傾け 祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません。 (詩編17編1節) |
||||
「罪なき者の訴え」:主への信頼の歌です。1節には「訴え」、「叫び」、「祈り」という言葉があります。わたしたち聖公会では、「おとなしめの」祈りが好まれているように思うことがあります。 | ||||
他教派との祈祷会に参加すると、声を大にして祈る方、「ああ」などの感嘆詞を多用される方、また一緒に祈る方も途中で「アーメン」や「ハレルヤ」と声を出す方など、いろんな方がおられます。 | ||||
この詩編の作者のように、無実の申し立てを神さまに対して堂々とできるとは思えません。しかし自分の思いを涙ながらに訴え、苦しみを叫び、力の限りに祈るということが、ときには必要なのでしょう。 | ||||
1月 30日「詩編17:6〜15」 | ||||
瞳のようにわたしを守り あなたの翼の陰に隠してください。 (詩編17編8節) |
||||
お葬式のときに、聖歌543番「わが魂を愛するイェスよ 波はさかまき風吹きあれて」という歌を歌うことがあります。途中に3連符が何度も出てくるので、なかなかうまく歌えませんが。 | ||||
その曲の2節にこのような歌詞があります。「われにはほかの隠れ家あらず 頼る方なきこの魂を ゆだねまつればみいつくしみの 翼のかげに守りたまいね」。「み翼の陰に守って下さる」、それがわたしたちに対する神さまの約束です。 | ||||
「救い」とは、危険や困難からの緩和だけではありません。わたしたちが神さまと正しい関係になることが、本当の救いです。神さまがわたしたちを守られ、わたしたちは神さまの元にすべてを委ねる、この関係を目指していきましょう。 | ||||
1月 31日「詩編18:1〜3」 | ||||
主はわたしの岩、砦、逃れ場 わたしの神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。 (詩編18編3節) |
||||
「王の感謝の歌」:王が歌った個人的感謝の歌です。ダビデの作とされるこの詩は、サムエル記下22章にも表題が同じ詩が見られます詩編18編は51節まである大変長い詩となっています。 | ||||
その長い詩全体のテーマと基調を、ここでは示しているようです。表題に書かれているように、この詩はダビデがサウル王に命を狙われていた状況から救われたことを、神さまに感謝しているものです。 | ||||
今日の箇所はその導入として、真っすぐに神さまをほめたたえています。わたしたちもお祈りの初めに、心の底から真っすぐに神さまを賛美し、神さまに感謝することができればと思います。 |