1月 11日「詩編7:1〜6」 | ||||
わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください。 (詩編7編2節) |
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「審判者なる主への訴え」:嘆きの詩です。新共同訳聖書1節の「シガヨン」という言葉は嘆きをあらわしていますが、具体的な意味は分かりません。ダビデが敵からの解放を求めて歌った詩だとされています。 | ||||
冒頭に「クシュのことについて」とあります。クシュという人名はサムエル記下18章21節に出てきますが、彼はベニヤミン人ではなくエチオピア人でなので別人です。ベニヤミン人として思い出されるのは、ダビデの前の王サウルです。 | ||||
彼はダビデを追い回し、その命を狙っていきました。その「敵」から逃れるために、ダビデは祈ります。ただし、もし自分に不正があったためにこのような事態を引き起こしたのであれば、わたしはどうなってもよいとも付け加えます。すごい祈りだと思います。 | ||||
1月 12日「詩編7:7〜12」 | ||||
主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してください お前は正しい、とがめるところはないと。 (詩編7編9節) |
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詩編にはしばしば、「避けどころ」という言葉が出てきます。不安と恐れの中にあっても、神さまに自分を委ねることで、わたしたちの魂はその「避けどころ」に避難することができるのだと思います。 | ||||
今日の詩には「避けどころ」という直接的な言葉は出てきません。しかしダビデが敵から逃れるために、神さまを自分の盾とし、神さまの正しさにすべてを委ねていることがわかります。 | ||||
わたしたちの祈りの中でも、「み心のままに」という言葉は大切です。今すぐにでも敵対する人に裁きを与えて欲しい、そのような思いがあったとしても、最後は神さまにお任せする。どんなに自分が正しいと思っていても、それは自分の尺度でしかないわけですから。 | ||||
1月 13日「詩編7:13〜18」 | ||||
災いが頭上に帰り 不法な業が自分の頭にふりかかりますように。 (詩編7編17節) |
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「自業自得」という言葉があります。また「天に向かって唾を吐くと己にかかる」という言葉もあります。悪いことをしてしまった人には天罰が降るということでしょうか。そのような人は、自らに対して裁きを招いているということになるのでしょう。 | ||||
旧約の時代には、善いことをした人には祝福が、悪いことをした人には罰が与えられると考えられていたために、このような祈りは当たり前の様にされていました。では貧しいことや病気など、苦しみの中にある状況が、「悪いことをした」とは結び付くのでしょうか。 | ||||
イエス様は、「因果応報」ではないとはっきり教えられました。特につらい状況にあるときに、「あなたの普段の行動が悪いからそうなったのよ」と言われたらショックを受けます。罪ある者が災いを受けるとすれば、誰一人として逃れることはできないのです。 | ||||
1月 14日「詩編8:1〜3」 | ||||
天に輝くあなたの威光をたたえます 幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き 報復する敵を絶ち滅ぼされます。 (詩編8編2b〜3節) |
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「創造主と人間」:詩編の中で最初に出てくる賛歌です。「ギティトに合わせて」と聖書には書かれています。「ギティト」とはぶどうを搾るための酒舟のことです。杜氏の人たちが酒造りのときに歌うようなものなのでしょうか。 | ||||
多くの詩編は、日常の中でも唱えられていたようです。様々な場面で、神さまに賛美をささげる。それがユダヤでは日常的におこなわれていたのです。わたしたちは日ごろ、神さまへの賛歌をささげているでしょうか。 | ||||
様々な働きをしている中で、神さまをほめたたえる。礼拝だけではなく料理をしていたり、車に乗っていたりするときなど、ふとしたときに神さまを思い、祈る。そのような毎日を過ごせるといいですね。 | ||||
1月 15日「詩編8:4〜10」 | ||||
そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。 (詩編8編5節) |
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「すみわたる大空に 星影はひかり 風そよぐ野に山に 草花はかおる 数しれぬ空の星 神さまはみな数え ひとつずつ目をとめて 守られるいつも」、聖歌350番の1節です。この詩は詩編8編を元に書かれています。 | ||||
創世記1章には、天地創造の場面が描かれています。神さまは天体や植物、鳥や魚、動物もすべて造られました。そしてわたしたち人間を造り、すべてのものを治めるように命じられました。 | ||||
わたしたちはその自然の中に生かされていることを、日々感謝したいと思います。日常の雑踏から離れ、星や自然、風に身を任せながら神さまの息吹きを感じる。その中で、ぜひ聖歌350番を歌いましょう。 | ||||
1月 16日「詩編9:1〜11」 | ||||
主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。 (詩編9編11節) |
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「虐げられた者を救う主」:敵から救ってもらったことについての個人的感謝の歌です。表題にある「ムトラベン」というものが何なのかは、はっきり分かっていません。オーボエやハーブに合わせてという意味ではないかとも言われています。 | ||||
ユダヤの人々はこのダビデの個人的な感謝の詩を歌いながら、自分たちの経験を重ね合わせていきます。彼らイスラエル民族には、苦い思い出がありました。それはバビロン捕囚という、列王記下24章にある出来事です。 | ||||
その苦難の中から救われた喜びを、この詩では歌っています。わたしたちにはよその国に無理やり連れて行かれるという経験はないかもしれません。しかし暗闇の中に光を与えられたことはあるでしょう。そのときにこそ、この詩のように神さまに感謝したいものです。 | ||||
1月 17日「詩編9:12〜15」 | ||||
おとめシオンの城門で あなたの賛美をひとつひとつ物語り 御救いに喜び躍ることができますように。 (詩編9編15節) |
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「おとめシオン」という言葉がでてきます。奈良基督教会には「シオンホール」という建物があり、また教会の広報誌には「シオンの丘」という名前がつけられています。「シオン」はわたしたちにとっても、身近な名前です。 | ||||
「シオン」というのは、エルサレムのことです。「喜べや たたえよや シオンの娘 主の民よ」という歌にも出てくるシオンは、エルサレムの詩的名称です。「心の清い者」という意味もあるようです。 | ||||
わたしたちにとって、シオンとはどこでしょうか。エルサレムというとパレスチナにある場所が浮かびますが、シオンとは神さまがおられる「新しいエルサレム」なのかもしれません。わたしたちもそこに招かれ、主を賛美することができるのです。 | ||||
1月 18日「詩編9:16〜21」 | ||||
主よ、異邦の民を恐れさせ 思い知らせてください 彼らが人間にすぎないことを。 (詩編9編21節) |
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詩編の下の方に、「〔セラ」や、「〔ヒガヨン・セラ」といった言葉が書かれていることがあります。詩編は当時、歌われていたということは何度かお話ししていたと思います。そしてこれらの言葉は、どのように歌うかを指示する記号だと考えられています。 | ||||
たとえば「セラ」は、「音程を上げる」という意味があると考えられています。(諸説ありますが)。また「ヒガヨン」は、「短い間を開ける」という意味があるそうです。(これまた諸説ありますが)。 | ||||
わたしたちも礼拝の中で、チャントを用いるときがあります。その際には指揮者(司式者)や楽譜に合わせて歌っていきます。同じことがずっと詩編を用いてなされ続けていたということは、祈りがずっと引き継がれていたことを意味しているのです。 | ||||
1月 19日「詩編10:1〜11」 | ||||
心に思う「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。 (詩編10編11節) |
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この10編には表題がつけられていません。そのため9編とあわせて、一つの詩だと考えられています。そう考えられるもう一つの理由は、9編・10編ともに、「アルファベットによる詩」となっていることです。 | ||||
この二つの詩は、すべての詩行の第二行の最初の字が、ヘブライ語のアルファベット順に並んでいます。日本でいう「いろは歌」のようなものです。このような詩編は、教育的な意味も持っていたようです。 | ||||
ここで作者は、「主よ、なぜ遠く離れて立ち 苦難の時に隠れておられるのか」と嘆きます。神さまの愛を感じることができない、そのようなことは昔からあったようです。そしてそのことを正直に人々は語ってきました。そのような声も、神さまは待っておられます。 | ||||
1月 20日「詩編10:12〜18」 | ||||
あなたは必ず御覧になって 御手に労苦と悩みをゆだねる人を 顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします。あなたはみなしごをお助けになります。 (詩編10編14節) |
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昨日の場面で、「神さまは隠れておられるのか」と嘆いた作者ですが、今日の詩の最後には「この地に住む人は 再び脅かされることがないでしょう」という言葉を書きます。この間には何があったのでしょうか。 | ||||
そこにあるのは、神さまは「貧しい人」を決して見捨てられないという確信です。「貧しい人」というのは、自分自身のことかもしれませんし、誰かを思い浮かべてのことかもしれません。 | ||||
ともかく詩編の作者は、神さまはご自分を一番必要としている人のところに来てくださると確信します。神さまに頼るしかない自分を感じるときに、この詩編の言葉は自分のものとなっていくのです。 |