1月 1日「詩編1編」 | ||||
その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 (詩編1編3節) |
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今年は詩編を読んでいきましょう。この中で各章の最初に書くタイトル(1編では「真の幸福」)は元々の聖書には書かれていませんが、フランシスコ会訳聖書より引用しています。また「現代聖書注解(L.J.メイズ著)」の注解も参考にしていきます。 | ||||
「真の幸福」:詩編第1編は、「いかに幸いなことか」から始まります。イエス様が山上の説教の冒頭で語られた「幸いなるかな」(マタイ5:3)との言葉を思い起こします。ここで作者は、「主の教えを喜び」とする人を幸いだというのです。 | ||||
教えや戒めは、わたしたちを縛りつけることがあります。しかし神さまによって生かされることを喜ぶ人に祝福があるとしたら、その教えはわたしたちを縛る鎖ではなくなるのです。詩編は神さまの祝福からスタートします。この一年、じっくりと味わって行きましょう。 | ||||
1月 2日「詩編2:1〜6」 | ||||
なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して 主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか (詩編2編2節) |
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「王であるメシアの支配」:この詩は王詩編と呼ばれるもので、メシア(救い主)とはどういう方を指すのかということを示しています。ちなみにこの詩は、王の即位式の際にも用いられていたと考えられています。 | ||||
旧約の時代、イスラエルの王には即位のときに油が注がれました。またヘブライ語のメシア(ギリシア語ではキリスト)という言葉は、「油注がれた者」という意味を持ちます。主が油を注いだということが大切なのです。 | ||||
ところが現代もそうですが、「地上の王」である権力者は、神さまを畏れることなく歩んでいるように思います。わたしたちは誰を畏れ、誰のみ心に従って歩んでいくべきか、この詩を通して考えていきたいと思います。 | ||||
1月 3日「詩編2:7〜12」 | ||||
主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」 (詩編2編7節) |
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多く詩編が、日本聖公会聖歌集の歌詞に用いられています。例えば今日の箇所の一節は、聖歌集408番3節で歌われています。「世の旅ゆく、神の子よ 悪しき力、迫るとも ゆくて阻む、おそれあらじ 神と歩め、主の道に」。 | ||||
この詩編の中では、王が即位することを「お前を生んだ」と表現しているようです。そしてその後イエス様が洗礼を受けられた時に、「あなたはわたしの愛する子」と神さまは告げられます。イエス様が本当の王、救い主として、わたしたちの間に来られたのです。 | ||||
そのことを信じているから、わたしたちは「畏れ敬って、主に仕え おののきつつ、喜び躍れ(11節)」るのです。わたしたちを愛し、導いてくださる方の声を聞き、イエス様と共に歩むことができるのです。 | ||||
1月 4日「詩編3編」 | ||||
主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち 神に逆らう者の歯を砕いてください。 (詩編3編8節) |
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「迫害時の朝の祈り」:この詩は個人的な嘆願詩編に分類されます。聖書を見ると、小さい字で「賛歌。ダビデの詩。…」と表題が書かれています。ただこの詩をダビデが書いたのか、アブシャロムから逃亡しているその最中に読まれたものかなどは、様々な意見があります。 | ||||
詩編がわたしたちの心を掴む大きな要因は、このような「個人的な祈り」が多くあるところです。詩編の言葉によって、わたしたちは個人的に神さまにどう祈っていけばよいのか、示されます。 | ||||
「主よ」という呼びかけで始まり、現状について嘆きつつ、「しかし主よ」と神さまに信頼を置く。そして「恐れません」と自分の決意を述べた後、「主よ、立ち上がってください」と願う。このような祈り、できるといいですね。 | ||||
1月 5日「詩編4:1〜6」 | ||||
人の子らよ いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか むなしさを愛し、偽りを求めるのか。 (詩編4編3節) |
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「夕べの信頼の祈り」:救いを求める個人的な祈りです。この詩は偽証によって傷つけられた人によって読まれています。3〜6節では特に、自分を侮辱し、苦しめた人々を叱責しています。 | ||||
わたしたちも祈りの中で、「怒り」をぶつけてしまうことがあります。自分に対する怒り、神さまに対する怒り、そして自分を貶めている人への怒り。そのような怒りにも、神さまは耳を傾けて下さいます。 | ||||
それは、「呼び求めるわたしに答えてください」、「苦難から解き放ってください」、「憐れんで、祈りを聞いてください」という切実な思いがあるからです。神さまに信頼し、思いを委ねるときに、神さまは聞いてくださるのです。 | ||||
1月 6日「詩編4:7〜9」 | ||||
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに わたしをここに住まわせてくださるのです。 (詩編4編9節) |
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昨日の箇所で作者は、傷ついた自分の姿を吐露し、怒りを表明していました。しかしこの後半部分において、彼は神さまへの信頼を前面にあらわし、眠りにつこうとしています。その背景には、希望がありました。 | ||||
聖歌471番「恵みの影に伏し憩い 愛の光に起きいでて 正しきわざを一日いそしみ 夕べのまどいいとたのし」は、この詩編を元にして書かれています。様々な苦難が日中にあったとしても、明日への希望を胸に信仰者は平安に満たされるのです。 | ||||
この詩は、夕べの祈りとして用いられてきました。わたしたちは生きていく中で、様々な苦難にぶつかります。しかしその日の終わりにはまた、神さまへの信頼が回復されていく。それが信仰なのではないでしょうか。 | ||||
1月 7日「詩編5:1〜8」 | ||||
主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て あなたを仰ぎ望みます。 (詩編5編4節) |
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「保護を求める朝の嘆願」:個人的嘆願の朝の祈りです。この詩編の1節には、【指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】と書かれています。「笛に合わせて」とあるように、詩編は歌われることが多かったようです。 | ||||
この詩編第5編も、聖歌集5番、6番、7番、15番の歌詞に使われています。15番は「くる朝ごとに」と題名を聞いただけでメロディーが自然に出てきそうな曲です。いずれの曲も、「朝の礼拝」というカテゴリーに入れられています。 | ||||
作者は朝から、どのようなことを祈っていたのでしょうか。それは「叫び」でした。詩編にはこのように、自分が置かれた状況を神さまに伝え、「何とかして欲しい」と願う嘆願の祈りが多く見られます。そのような詩編にも心を向けて、わたしたちも祈りましょう。 | ||||
1月 8日「詩編5:9〜13」 | ||||
あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ あなたによって喜び誇ります。 (詩編5編12節) |
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この詩編5編では、作者は偽証によって窮地に落とされているようです。旧約聖書の十戒には、「偽証してはならない」という掟が書かれています。どんな理由であれ、隣人に対して偽証することは、神さまに背くことになります。 | ||||
その「裁き」を神さまにお委ねするというのがこの詩の内容になっていますが、わたしたちの日常の中では「真実(真理)」が立ち位置によって変わってしまう、つまり何が正しいのか判断が難しいという事例もみられます。 | ||||
他者とのトラブルを神さまにお委ねする。人間的とも思える行為ですが、「毒麦を育つままにしておきなさい。裁きは神さまにお任せしなさい」と語られたイエス様の言葉を思い起こすと、とても大事な視点なのかもしれません。 | ||||
1月 9日「詩編6:1〜6」 | ||||
主よ、立ち帰り わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく わたしを救ってください。 (詩編6編5節) |
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「憐れみを乞う病人の祈り」:カトリック教会ではこの詩を、七つの痛悔詩編の最初のものと分類します。「痛悔」とはカトリック用語で、「心の底から悔やむこと。非常に後悔すること」を意味します。 | ||||
「主よ、癒してください」という言葉があるとおり、作者は病気からの癒しを望んでいます。ただ詩の中で主の怒りや憤りに触れているように、当時病気にかかることは、神さまからの罰だと考えられていました。 | ||||
そのため「病気を治してください」という祈りは、「わたしの罪をお赦しください」という願いに通じていました。わたしたちが病気の癒しを祈るときとは、少し違う感覚なのかもしれません。 | ||||
1月 10日「詩編6:7〜11」 | ||||
苦悩にわたしの目は衰えて行き わたしを苦しめる者のゆえに 老いてしまいました。 (詩編6編8節) |
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詩編6編の最初に「第八調」と書かれています。これは、1オクターブ下げて歌いなさいということです。つまり悲しみを現わすために、低い声(低音)で歌いなさいという指示だそうです。 | ||||
「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです」と作者は嘆きます。そして「悪を行う者よ、皆わたしを離れよ」と叫ぶのです。ただこの悪は、罪を犯す自分自身のこと(心)なのかもしれません。 | ||||
そして作者は、主がその声を聞き、受け入れて下さるという確信を持ちます。この確信は、わたしたちの祈りにおいても大事なものです。「神さまは必ずわたしの願いを聞いてくださる」、その思いを持ちながら、毎日祈っていきたいものです。 |