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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2024年12月21日〜31日

1221ガラテヤの信徒への手紙4811
 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。
(ガラテヤの信徒への手紙4章10節)
パウロが今日書いている内容は、「信仰の逆戻り」と言ってもいいかと思います。わたしたちも、一度信仰に入ったものの、また元に戻ってしまうことがあると思います。ただそれは神さまにではなく、教会に原因があることも多いようですが。
「信仰」は目に見えないものだけに、「このままで良いのだろうか」と不安を覚えてしまいます。ユダヤ教の人たちは、過越祭や仮庵祭など様々な祭りを大切にしてきました。また安息日や断食日などもきちんと守ってきました。
そのように何かをすることによって、神さまに向かおうとしてきました。しかしわたしたちは自分の力で神さまを知ったのではなく、神さまから知られていたのです。神さまが一方的にわたしたちを愛してくださった、それが信仰の原点であることを忘れずにいましょう。
1222ガラテヤの信徒への手紙41220
 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。
(ガラテヤの信徒への手紙4章20節)
12節前半にある「わたしもあなたがたのようになったのですから」というのは、パウロが律法を手放したという意味です。しかしガラテヤの人々は以前のパウロのように、律法を守ることによって信仰が満たされると考えるようになってきました。
パウロはもう一度、自分がガラテヤに行った時のことを思い出してほしいと願います。パウロは「体が弱くなったことがきっかけで」と書きます。これはパウロの目が病気にかかったことではないかと言われています。
そのパウロに対してガラテヤの人々は、自分の目をえぐりだしてパウロに与えようとしたというのです。現実的にそれで目が治ることはないとしても、パウロはその心がとてもうれしかったでしょう。そのときの語調に戻したい。パウロはそれを願います。
1223ガラテヤの信徒への手紙42127
 これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。
(ガラテヤの信徒への手紙4章24節)
パウロはここから旧約の二人の女性を用い、たとえを語ります。今日登場するのはイシュマエルの母、ハガルです。彼女はアブラハムの妻サラの女奴隷でしたが、子を産めないサラに代わってアブラハムの子を産みます。それがイシュマエルです。
彼女はイシュマエルを身ごもったとき、サラの元から一旦逃げましたが、シナイで幻を見て戻ってきます。しかし後にイシュマエルと共にアブラハムの元から追い出され、シナイの荒れ野があったアラビアに住み着くことになります。
パウロはハガルが奴隷であったこと、そしてシナイで律法が与えられたことを結びつけてます。今のエルサレムはその子どもたちと共に奴隷になっていると語るのです。「律法の鎖から抜け出せない人たち」をそのようにたとえていくのです。
1224ガラテヤの信徒への手紙42831
 要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。
(ガラテヤの信徒への手紙4章31節)
一方サラには、神さまからの約束によってイサクが与えられました。奴隷の子イシュマエルと自由の子イサク。このような構図で書かれることに違和感はありますが、ユダヤ人にとってこの二人とその子孫の確執は大きなものでした。
聖書にはイシュマエルがイサクを「からかった」事件が書かれていますが、ユダヤ教にはイシュマエルがイサクを、弓矢遊びを装って殺そうとした伝承が残されています。パウロはその伝承も頭に入れながら、このようなたとえを語ったのでしょう。
パウロがここで言いたかったのは、わたしたちは律法に奴隷のように支配されているのではなく、自由なのだということです。たとえの用い方には疑問が残りますが、「キリスト者の自由」という大命題が明日から語られていきます。
1225ガラテヤの信徒への手紙516
 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
(ガラテヤの信徒への手紙5章4節)
クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、救い主イエス様がわたしたちのためにお生まれになった日です。その日にわたしたちは、パウロの書いた厳しい勧告に耳を傾けます。
「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」という言葉は、割礼とは縁遠いわたしたちには響かないかもしれません。しかし「割礼」ではなく、「何かに寄り頼むこと」で義とされようとしているのならどうでしょうか。
お金、名誉、地位、また自分の力に頼ってわたしたちが義とされようとするのであれば、イエス様は必要ないのです。神さまの前に自分で立てるのであれば、イエス様に来ていただかなくてもいいのです。降誕日の今日だからこそ、心に留めていきましょう。
1226ガラテヤの信徒への手紙5715
 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
(ガラテヤの信徒への手紙5章13節)
「キリスト者の自由」を語ってきたパウロは、ここでその実践的内容に踏み込んでいきます。福音書の中には、イエス様とファリサイ派や律法学者たちが対立する場面がしばしばみられました。
たとえば安息日に病気の人をいやしたイエス様に対して、「そういうことを安息日にしてはいけない」とファリサイ派たちは批判します。その言葉の先には、病気をいやされて喜んでいる人の姿は見えていないのです。
律法のような決まりはときに、人を批判し排除する道具になっていきます。わたしたちの教会にも、同じようなことがあるかもしれません。そうではなく自由になったわたしたちは、愛をもって互いに仕えあうことが大切なのです。神さまがわたしたちを愛されたように。
1227「ガラテヤの信徒への手紙51621
 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
(ガラテヤの信徒への手紙5章16節)
パウロは自己中心的に生きる姿を、「肉」と表現していきます。その具体的な業を、パウロは列記していきます。「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」。
自分には関係ないと思えるものもあれば、「怒り」など日常の中で身近に感じるものもあります。それらの「肉の望むところ」から離れて、「霊の望むところ」に身を置きなさいということなのでしょう。
しかしそれは、自分の力だけでおこなうことはできません。奈良基督教会では12月15日と来年1月5日に洗礼式があります。その際に志願者は何度も答えます。「神の助けによって」。自分の弱さを知り、神さまの助けを求める。これが大切なことなのです。
1228ガラテヤの信徒への手紙52226
 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
(ガラテヤの信徒への手紙5章25節)
昨日の箇所でパウロは、「肉の業」を列記しました。それに対して霊の実は何なのかを書き記します。それは、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であるというのです。
今年も残すところ、今日を入れてあと四日となりました。「来年、わたしは喜びに満ちた一年を目指す」、「わたしは周りの人に対して柔和でありたい」、そのような目標を決めてもよいのではないでしょうか。
イエス様はわたしたちの肉の思いも一緒に、十字架につけてくださいました。そのことを信じ、霊の導きによって歩んでいくことができればと思います。互いに支えあい、喜びながら歩んでいく教会になれたらいいですね。
1229ガラテヤの信徒への手紙616
 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
(ガラテヤの信徒への手紙6章2節)
ガラテヤの信徒への手紙もついに最終章に入ります。パウロがガラテヤの人々に最後に伝えようとしたのは、「お互いに助け合うこと」です。罪に陥った人がいたらどうしたらいいか、そして重荷を負っている人がいたらどうしたらいいかということです。
誰かが罪を犯したとき、その罪を糾弾し、その人を共同体から排除していくことはとてもたやすいことです。そうすることによって、共同体も守られるでしょう。しかしパウロはそうではなく、「立ち帰らせなさい」と命じます。
そのためには、罪を犯した人とも共に歩んでいくことが大切なのです。重荷を互いに担いあうことも同じです。教会の中だけを安心・安全にするのではなく、罪の中でもがきながら、一緒に生きていくことが求められているのではないでしょうか。
1230ガラテヤの信徒への手紙6710
 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。
(ガラテヤの信徒への手紙6章9節)
「たゆまず善をおこなう」、言葉では簡単に言えますが、実行するとなるとなかなか大変なことです。「一日一善」という言葉があります。一日に一回善をおこなうだけでも目標になるのに、「たゆまず」となると一日何善になるのでしょうか。
ただこれは当然、何回かという回数の問題ではありません。そのような思いで生活しましょう、悪から離れて生きていきましょうということです。わたしたちの世界を見ると、善い人が損をする、そのように見えることもあるかもしれません。
しかし神さまは、いつもわたしたちのことを見ていてくださいます。なかなか実を結ばないことで飽きてはいけません。わたしたちのおこないが天に宝を積んでいることを信じ、歩むことができればと思います。
1231ガラテヤの信徒への手紙61118
 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。
(ガラテヤの信徒への手紙6章11節)
パウロはここまで、口述筆記によってこの手紙を書いていました。目がよく見えないパウロは自分の力で小さな文字を書くことができず、誰かの助けを受けて代わりに書いてもらっていたのです。
ところがここから、パウロは自筆で書き出します。それはこの手紙の最後に書かれることを、本当に伝えたいという熱い思いからなされたことでしょう。目がよく見えない彼の字は、とても大きくなりました。それは彼のガラテヤの人々に対する愛の大きさと比例しています。
「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」と語るパウロの言葉は、わたしたちに何を伝えているのでしょうか。わたしたちもイエス様の十字架のみを誇り、歩むことができればと思います。来年はご一緒に「詩編」をお読みしましょう!

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
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牧師:司祭マタイ古本靖久
副牧師:司祭エレナ古本みさ