12月11日「ガラテヤの信徒への手紙2:1〜5」 | ||||
その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。 (ガラテヤの信徒への手紙2章1節) |
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パウロは続けて、自分の使徒であることと共に、自分が伝える福音の正当性を語ります。「その後14年たってから」エルサレムに上ったのは、使徒言行録15章にある「エルサレム使徒会議」に出席するためでした。 | ||||
その会議の中で大きな議題となったのは、異邦人と呼ばれるユダヤ人以外の人たちがキリスト者になる際に、割礼が必要かどうかということでした。割礼はアブラハムの時代に始まり、ユダヤ人のアイデンティティとして大切にされてきました。 | ||||
使徒会議の中で、異邦人には割礼を施す必要はないとされます。その証拠に、同行した異邦人テトスは割礼を受けませんでした。その「自由」が保証されていたはずだと、パウロは語ります。しかしその福音の自由がガラテヤにおいて、脅かされているのです。 | ||||
12月12日「ガラテヤの信徒への手紙2:6〜10」 | ||||
ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。 (ガラテヤの信徒への手紙2章10節) |
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エルサレムの使徒会議を経て、ペトロたちは割礼を受けている人々(ユダヤ人)に、パウロやバルナバは割礼を受けていない人々(異邦人)に福音を伝えていくことになりました。そこには何の上下関係などありません。 | ||||
「神は人を分け隔てなさいません」という言葉は、「神は人を偏って見ることはない」という意味です。旧約聖書には、救いはまずユダヤ人に訪れるという考え方がありました。そこからユダヤ人の「選民思想」も生まれていきます。 | ||||
しかし「新しい契約(新約)」においては、救いはイエス様を通してすべての人に同じように与えられるとされます。わたしたちの中には「選民意識」はないでしょうか。わたしたちは神さまの憐れみによって、ただ一方的に呼ばれたのです。 | ||||
12月13日「ガラテヤの信徒への手紙2:11〜14」 | ||||
なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。 (ガラテヤの信徒への手紙2章12節) |
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シリアのアンティオキアで、一つの事件が起こります。異邦人と一緒に食事をしていたケファ(ペトロ)が、エルサレムの指導者であったヤコブの元から人が来た途端、食卓を囲むことに対してしり込みしたというのです。 | ||||
ユダヤ教には食物規定があり、食べてはいけない物が細かく決められ、さらに食事の相手も制限されていました。罪人や異邦人と一緒に食事をしてはいけないのです。ただペトロは使徒言行録10章で異邦人との間にある壁は乗り越えたはずでした。 | ||||
ここでの食事は、聖餐式を意味しています。そのような大切な食卓から、神さまが選んだ人たちを排除する。パウロにはそれがゆるせませんでした。ただペトロの微妙な立場も理解できます。「正論を言われても」と困惑したことでしょう。 | ||||
12月14日「ガラテヤの信徒への手紙2:15〜21」 | ||||
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 (ガラテヤの信徒への手紙2章20節) |
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パウロはここで、神さまとの正しい関係について語ります。「生まれながらのユダヤ人」というのは、選ばれた民として神さまとの特別の関係にある、いわば特権的な地位をもつ人のことです。 | ||||
しかし神さまは、選ばれた人たちが律法を遵守することによって救われるというやり方をあきらめました。なぜなら人は誰一人として、思いと言葉と行いによって律法を完全に守ることができないからです。 | ||||
人が義とされる唯一の道は、イエス様を信じて受け入れることです。そこにはユダヤ人も異邦人も関係ありません。そしてわたしたちに対しても、救いの道が開かれたということなのです。 | ||||
12月15日「ガラテヤの信徒への手紙3:1〜6」 | ||||
それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。 (ガラテヤの信徒への手紙3章6節) |
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2000年前の人々と違い、わたしたちは「律法」と言われてもなかなかピンときません。割礼や十戒など、身近に感じる人はほとんどいないでしょう。だからパウロの言う「信仰による義」を受け入れることはたやすいのかもしれません。 | ||||
しかし何かをしなければ信仰に入ることができない、信じた後もこういうことをしなければならないというような考え方はどこかにあります。それは「何もしない」と心配になってしまうからです。 | ||||
ガラテヤの人たちも、福音をただ信じて霊を受けました。しかし割礼を受けることによって、肉による仕上げをしようとしたのです。パウロはそのようなものが必要ない証拠として、アブラハムを例にあげて説明していきます。 | ||||
12月16日「ガラテヤの信徒への手紙3:7〜14」 | ||||
律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。 (ガラテヤの信徒への手紙3章11節) |
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アブラハムのことを、「信仰の父」と呼ぶことがあります。それは昨日の箇所にあるように、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」からです。信仰によって義とされたのです。 | ||||
それに対して律法は、わたしたちに絶望を与えます。それは神さまの前に正しくあり続けることなどできないからです。律法を絶えず守ることができないならば、わたしたちは呪われるというのです。 | ||||
イエス様の十字架は、わたしたちをその「律法の呪い」から贖い出したのだとパウロは書きます。律法の呪いを一身に受け、十字架上で血を流すことによって、律法の鎖を断ち切られたのです。わたしたちは神さまの前に、律法からの自由を与えられたのです。 | ||||
12月17日「ガラテヤの信徒への手紙3:15〜20」 | ||||
では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。 (ガラテヤの信徒への手紙3章19節) |
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アブラハムの信仰が義とされたとき、まだ律法は与えられていませんでした。神さまは律法を出エジプトの際に、荒れ野でモーセに与えられました。それはアブラハムの出来事から430年も後のことです。 | ||||
だからアブラハムとの契約が律法に勝るとパウロは言うのですが、それでは律法は何のために定められたのでしょうか。その疑問に対してパウロはこのように答えます。一つは罪を自覚させるためです。 | ||||
律法を本当の意味で守ることのできない自分に気づき、「約束を与えられたあの子孫」であるイエス様が来られることを待ちわびる。これがわたしたちに与えられた、唯一の希望なのです。 | ||||
12月18日「ガラテヤの信徒への手紙3:21〜25」 | ||||
信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。 (ガラテヤの信徒への手紙3章23節) |
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パウロは神さまの救いの計画を語っていきます。それは律法という神さまから与えられたものが決して無駄なものではなく、わたしたちにとっても大きな意味を持つものであることを示すためです。 | ||||
「律法はわたしたちをキリストのもとへ導く養育係」であるとパウロは書きます。養育係とは当時子どもに行儀作法をしつける役割を持っていた人のことで、奴隷や元奴隷がその任を負っていました。 | ||||
つまり律法があることによって、「わたしたちはこのままではダメだ」という気持ちを起こさせ、イエス様へと目が向けられる。そしてイエス様を心に迎え入れることによって、救いがもたらされる。クリスマスを前にしたこの時期にこそ、心に留めたいことです。 | ||||
12月19日「ガラテヤの信徒への手紙3:26〜29」 | ||||
そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 (ガラテヤの信徒への手紙3章28節) |
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わたしたちは洗礼を受けることを、「キリストを着る」と表現することがあります。その言い方は、この箇所からきています。わたしたちは洗礼を受けたからといって、人格や性格が変わるわけではありません。 | ||||
また洗礼を受けた翌日から罪をまったく犯さなくなるかというと、そうでもありません。わたしたちは罪に汚れた身体のままで受け入れられ、そのままの姿で歩むことを許されているのです。 | ||||
つまりわたしたちがどんな者であろうとも、神さまには関係ないのです。民族や身分、地位や性別などを超えて、神さまの救いはもたらされます。だからわたしたちは、すべての違いを超えて神さまの元に一つになれるのです。 | ||||
12月20日「ガラテヤの信徒への手紙4:1〜7」 | ||||
ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。 (ガラテヤの信徒への手紙4章7節) |
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神さまの救済計画をパウロは語ります。わたしたちにとって遠い話に聞こえるかもしれませんが、この神さまの決断がなかったらわたしたちに救いが与えられなかったと考えると、とても大切なことです。 | ||||
イエス様が来られたことによって、わたしたちは奴隷ではなく神の子にされたとパウロは書きます。律法に監視され、自由を奪われていた頃の人間は、まさに奴隷と呼ばれる存在でした。 | ||||
それが神の子とされる。主の祈りでわたしたちは「天におられるわたしたちの父よ」と唱えます。神さまのことを「アッバ(お父ちゃん)」と呼ぶことができる喜びを、かみしめていきたいと思います。 |