12月 1日「コリントの信徒への手紙二12:11〜13」 | ||||
あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。 (コリントの信徒への手紙二12章13節) |
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パウロは、「わたしは愚か者になってしまいました」と語ります。パウロは神さまによって与えられた素晴らしい体験を語る必要性を感じました。しかしそれは、コリントの人たちから自慢をしているように見られるかもしれないと感じたようです。 | ||||
パウロはまた、「大使徒たち」に自分は引けを取っていないとも語ります。12弟子はイエス様に直接、権能を与えられました。しかしパウロにも同じ力が与えられていたことは、聖書からも想像できます。 | ||||
そしてパウロは、自分がコリントの人たちから報酬を受けなかったことで、かえって負担を掛けてしまったのだと考えているようです。働きに応じた報酬は、やはり必要なのだということでしょうか。 | ||||
12月 2日「コリントの信徒への手紙二12:14〜18」 | ||||
そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。 (コリントの信徒への手紙二12章17節) |
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パウロはコリントの教会への三度目の訪問について語ります。彼が訪問するのに「負担をかけない」と言っているのは、パウロが利益を得るためではなく、あくまでも信徒たちが霊的に成長するためだということです。 | ||||
ただコリントの人たちの中からは、パウロが集めたエルサレム教会への募金について、疑惑の目が向けられていたようです。今と違って振り込みの証明や領収書があるわけではないので、信用によってのみ成り立っていたと思います。 | ||||
教会においても、会計に対して疑惑の目が向けられることがあります。ある意味大切なことではありますが、会計担当者や教会委員会、そして牧師を信用していただけたらとも思います。パウロも疑惑の目で見られることは、とても悲しかったことでしょう。 | ||||
12月 3日「コリントの信徒への手紙二12:19〜21」 | ||||
あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。 (コリントの信徒への手紙二12章19節) |
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パウロのコリント訪問の目的は、コリントの人たちの霊的な養いに尽きます。しかしこのままでは、お互いの期待とは外れた現実に失望し、かえって混乱するのではないかとパウロは心配します。 | ||||
「期待していたけれども、会ってみると思ったのとは違った」ということは、わたしたちの生活の中でもよくあることです。それは想像の中で理想が大きく膨らんでしまうからでしょう。 | ||||
それと同時に、「どうせここには来ないだろう」と安心しきって堕落することもあるでしょう。コリントの人たちが、そうでした。そのような中では、久しぶりに出会えた喜びよりも、失望が上回るのです。 | ||||
12月 4日「コリントの信徒への手紙二13:1〜4」 | ||||
なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。 (コリントの信徒への手紙二13章3節) |
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パウロは、「わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です」と繰り返します。仏の顔も三度という言葉があります。「今度そちらに行ったら、容赦しません」というパウロの言葉には、強い警告の思いがあるようです。 | ||||
パウロは一度目の訪問で教会をたてましたが、二度目の訪問でコリントの状況に心を痛めました。その悲しみと怒りの中で、この手紙は書き記されました。彼はコリントの人たちに、悔い改めを求めます。 | ||||
しかし一方で「キリストはあなたがたの間で強い方です」とも語ります。イエス様は十字架の前に弱くされました。しかし復活され、わたしたちは命を与えられました。弱さの中で本当の強さを与えられたことを思い返しなさいということかもしれません。 | ||||
12月 5日「コリントの信徒への手紙二13:5〜10」 | ||||
わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。 (コリントの信徒への手紙二13章9節) |
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パウロはコリントの人たちに対して、「自分を吟味しなさい」と語ります。自分を吟味したときに、自分の心の中にはイエス様がいてくださると信じることができた人を、パウロは「適格者」と呼びます。 | ||||
わたしたちは「適格者」でしょうか。わたしたちは日々の歩みの中で、何度も戸惑い、イエス様を見失います。自分の力だけで生きているという思いも持ちます。しかしそこに、いつもイエス様が共にいてくださることを覚えていきたいものです。 | ||||
わたしたちは自分の力だけで、「完全な者」にはなりえません。神さまの恵みによって、そしてお互いが欠点を補い合い歩んでいくことによって、わたしたちは「完全な者」とされていくのです。 | ||||
12月 6日「コリントの信徒への手紙二13:11〜13」 | ||||
聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。 (コリントの信徒への手紙二13章12節) |
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コリントの信徒への手紙二も今日で最後です。昨日までの文体と打って変わって、とても穏やかな文章になっています。パウロはコリントの人たちに対して、様々な言葉を用いて励まします。 | ||||
そして最後には、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」という祈りが書かれます。この言葉は礼拝だけでなく様々な会合などにおいても、「祝祷」として用いられることがあります。 | ||||
どんなに意見がぶつかり合っても、三位一体の神との交わりを感じ、教会が一致に向かって進んで行くことを覚えるのです。これから祝祷が祈られるときには、どうぞそのことを感じてください。 | ||||
12月 7日「ガラテヤの信徒への手紙1:1〜5」 | ||||
人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、 (ガラテヤの信徒への手紙1章1節) |
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今日から月末まで、ガラテヤの信徒への手紙を読み進めていきます。この手紙もパウロによって書かれたものです。パウロは三回の宣教旅行の中でこの地を訪れ、教会共同体をつくっていきました。 | ||||
ただ他の手紙と同様に、ガラテヤの人々も「偽教師」によって惑わされ、正しい福音からそれたという現実があったようです。そこでパウロは軌道修正するために、この書簡を送ったと言われます。 | ||||
この手紙では、福音が丁寧に語られていきます。わたしたちもこの手紙を読みながら、神さまから送られた福音(グッドニュース)に触れていくことができればと思います。楽しみながら読んでいきましょう。 | ||||
12月 8日「ガラテヤの信徒への手紙1:6〜10」 | ||||
ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。 (ガラテヤの信徒への手紙1章7節) |
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パウロの他の手紙では、あいさつの後に感謝や賛辞が書かれることがほとんどでした。しかしこの手紙では、いきなり本題に入っていきます。パウロには、「必ず伝えなければ」という熱い思いがあったようです。 | ||||
パウロが怒っているのは、「ほかの福音」に人々が簡単に乗り換えようとしていることでした。しかもそれは、「福音」とは呼べないもののようです。それが何なのかは、後ほど語られていきます。 | ||||
ただパウロの言葉に「呪われるがよい」という文字が二度出てくるのは少し怖い気がします。わたしたちが誰かから手紙を受け取ったとき、あいさつのあとにこのような言葉が並ぶと、震えあがってしまいそうです。 | ||||
12月 9日「ガラテヤの信徒への手紙1:11〜17」 | ||||
あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。 (ガラテヤの信徒への手紙1章13節) |
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パウロはしばしば、手紙の中で自分自身の召命について語ります。それは彼が元々キリスト教に対する迫害者であり、またイエス様の直接の弟子でもなかったからです。「彼は何様だ」とよく言われていたのでしょう。 | ||||
パウロはしかし、自分はイエス様から啓示を受けたのだとはっきり伝えます。また神さまがイエス様を自分に示して、異邦人(外国人)の元に福音を告げ知らせるように遣わしたのだと言うのです。 | ||||
わたしたちも誰かが間に入ってイエス様と結ばれているのではありません。神さまはわたしたち一人一人のためにイエス様を遣わし、イエス様はわたしたちと直接つながっているのです。つまりわたしたちも、イエス様の直弟子なのです。 | ||||
12月 10日「ガラテヤの信徒への手紙1:18〜24」 | ||||
わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。 (ガラテヤの信徒への手紙1章20節) |
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パウロがダマスコで回心をして三年後、彼はエルサレムに行きケファと知り合いになろうと考えます。ケファとはシモン・ペトロのことです。ペトロはエルサレム教会の指導者として活動していました。 | ||||
パウロはなぜペトロに会いに行ったのでしょうか。使徒として活動するための許可を取ろうとしたのでしょうか。しかしたった二週間の滞在だけでは、たいしたことはできなかったかもしれません。 | ||||
ただパウロは、自分が啓示された福音の正当性を認めてもらいたかっただけかもしれません。当時異邦人に宣教することは、エルサレム教会にとってなかなか理解できないことでした。しかしその必要を、パウロは熱く語ったのでしょう。 |