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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2024年11月21日〜30日

1121コリントの信徒への手紙二10711
 わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。
(コリントの信徒への手紙二10章10節)
イエス様が厳しい勧告の言葉を言われている場面の説教をするときに、とても悩むことがあります。それは、その言葉を受け取る人が傷ついてしまわないか、とても不安になるからです。聖書をそのまま伝えるのが怖くなるのです。
パウロはコリントの人たちに対して、ときに厳しく書き記します。自分の権威を用いたり、罰について語ったり、あらゆる手段を用います。しかしそのように書くのは、コリントの人たちが憎いのではなく、彼らを愛しているからなのです。
たとえ嫌われたとしても、福音を正確に伝えたい。この姿勢は説教者のみならず、わたしたち一人一人が大切にしなければならないものかもしれません。とても難しいことではありますが。
1122コリントの信徒への手紙101218
 「誇る者は主を誇れ。」
(コリントの信徒への手紙二10章17節)
教会用語で、「神さまに栄光を帰(き)す」という言葉があります。たとえば大きなイベントが成功したとします。たくさんの力を大勢の人が出し合い、そのおかげでみんなが笑顔になったとしても。「栄光を主に帰しましょう!」と呼びかけるのです。
時々わたしも何かをやったあとに「先生すごいですね」と言われたとしても、「いや、すごいのは神さまです」とお話しすることがあります。「またまた、謙遜して〜」と思われるかもしれませんが、そうではないんですね。
パウロは、「自己推薦することなく」と書きます。自己推薦とは、自分の功績を前面に出し、自分を誇ることです。しかしその誇りを自分の手から離すことで、神さまはあなたを推薦してくださるのです。
1123コリントの信徒への手紙1116
 たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。
(コリントの信徒への手紙二11章6節)
パウロはここでコリントの人たちを、キリストにささげられた純潔な処女として書き記します。しかし旧約聖書のエバが蛇に誘惑されたように、その純潔が守られるのかが心配だというのです。
コリントの教会には、様々な人たちが訪れました。その中には、「パウロはちゃんとした使徒ではない」といったパウロの悪口を言う人たちもいたようです。さらにその教えを批判したりもしていました。
パウロは自分には知識があるということをひけらかしているようにも見えますが、決してそうではありません。パウロは働きだけではなく、知識においても「大使徒」に劣る者ではないということです。この「大使徒」とは一体誰のことを指しているのでしょうか。
1124コリントの信徒への手紙11711
 わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。
(コリントの信徒への手紙二11章8節)
パウロはコリントの信徒への手紙一9章14節で「同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」と書いている通り、福音を宣教する人には報酬を得る権利があると書いています。
しかしパウロ本人は、報酬を受け取ろうとはしませんでした。そのためこの行動が、コリントの人たちに誤解を与えたようです。パウロはコリントの人たちを愛していないから報酬をもらわないんだとか、人々を信頼していないんだとか。
「信徒に負担を掛けたくないから」というパウロの思いと、「これは神さまのご計画のために用いて欲しい」というコリントの人たちの思いがすれ違ってしまっているのかもしれません。教会の献金も、「神さまのため」という目的を外れたら、同じことになるのでしょう。
1125コリントの信徒への手紙111215
 こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。
(コリントの信徒への手紙二11章13節)
何やら恐ろしい文章が続きます。「偽使徒」、「ずる賢い働き手」、「キリストの使徒を装っている」、これらの言葉は、報酬を得ながらコリントの人たちに、「パウロが語るのとは違う福音」を伝えている人たちに語られているようです。
こういう記述を見ると、「毒麦は育つままにしておきなさい。収穫のときに神さまが抜くから」と言われたイエス様の言葉との違いに気づかされます。パウロはどうしても人を裁く傾向があるように思えてしまいます。
この記述を元にして、わたしたちは裁き合いをしてはいけません。一方から見たら「偽教師」に見えても、神さまから見たらそうではないということもあります。「自分こそが正義」となってはいけないのです。
1126コリントの信徒への手紙111620
 わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。
(コリントの信徒への手紙二11章17節)
パウロは使徒として活動していく中で、何度も自分の過去のことを語る必要に迫られたと思います。パウロ(当時はサウロと呼ばれていた)が回心した物語は、使徒言行録の9章に書かれています。
パウロはユダヤ人ファリサイ派として、キリスト教徒を迫害していました。イエス様に従っていたステファノが殺害される場面でも、パウロはそれに賛成し、石を投げる人たちの上着の番をしていました。
その行動はまさに、「愚か者」でした。しかしそこまで愚かな自分が変えられたということ、その愚かさをパウロは誇るのです。自分の汚い部分を隠すのではなく正面から語る、それがパウロに課せられた使命だったのでしょう。
1127コリントの信徒への手紙112129
 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。
(コリントの信徒への手紙二11章29節)
パウロはキリストに仕える者となりました。しかしそのことによって苦労し、投獄され、鞭で打たれ、石を投げつけられ、難船したことさえありました。それ以上に細かく列記されています。
わたしも牧師として、様々な苦難や痛みに遭ってきました。いつ何時、何が起こるか分からないという不安もいつも付きまといます。そしてこれからもきっと、同じようなことが起こることでしょう。
しかし一方で、苦しみ以上の喜びがあります。神さまの驚くべきみ業を間近で感じる幸せがあります。パウロもきっと、様々な教会の人たちと喜びも悲しみも痛みも、すべてのものを分かち合う幸せを感じていたことでしょう。
1128コリントの信徒への手紙113033
 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。
(コリントの信徒への手紙二11章30節)
「弱さを誇る」というパウロの言葉は、次の12章にも続いていきます。それでは、「パウロの弱さ」とは具体的にどういうことでしょうか。手紙を読む限り、パウロはとても強く思えてしまいますが。
パウロは一つの出来事を取り上げます。それは、ダマスコで起こったことです。このダマスコという地は、パウロが回心した場所でもありました。パウロはこのダマスコの地に、キリスト者を捕らえて殺すのだと意気揚々と入ってきました。
しかし復活のイエス様に呼ばれ、目からウロコのようなものが落ちたパウロは、逃げるようにしてダマスコを出て行くことになります。「強さ」を前面に出しながら町に入ったパウロが、籠を使って隠れながら出て行く、「弱い」者として町を出たのです。
1129コリントの信徒への手紙1215
 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。
(コリントの信徒への手紙二12章3節)
パウロがここで語る「キリストに結ばれていた一人の人」というのは、パウロ自身のことのようです。また「第三の天」というのは天をいくつかの等級に分けるユダヤの考え方に基づくと「楽園」を指していたようです。
パウロは神さまの恵みによって、自分は楽園にまで引き上げられたのだと語ります。ただパウロがこのことを客観的に語っているように、パウロはこの体験のことを具体的に伝えたいわけではなさそうです。
パウロは楽園に引き上げられた自分を誇り、そして自分自身の「弱さ」をも誇ります。一見すると矛盾したことのようにも思えます。しかし後述していくように、いずれも「神さまの力」が強調される出来事です。パウロはそのことを伝えていくのです。
1130コリントの信徒への手紙二12610
 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
(コリントの信徒への手紙二12章9節)
わたしたちは、強くありたいと願います。肉体的にも霊的にも、強く雄々しくありたいと思うのです。パウロもそうだったのでしょう。パウロには「とげ」が与えられていました。
パウロはそれを除いてほしいと、三度も神さまに願ったそうです。しかしそれは、取り除かれませんでした。パウロの「とげ」とは何でしょうか。一説には肉体的な病気だと解釈されています。そのとげが、宣教活動に支障をきたしていたようです。
しかし反面、そのとげに対処することによって与えられた恵みにも気づかされていきます。人々の手助けだけでなく神さまの導きなど、「弱い」からこそ「喜ぶ」ことができるのです。そしてパウロは力強く語るのです。「わたしは弱いときにこそ、強い」と。

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