11月11日「コリントの信徒への手紙二7:1〜7」 | ||||
あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。 (コリントの信徒への手紙二7章3節) |
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今日の箇所には、慰めという言葉が三回、喜ぶという言葉が二回出てきます。パウロはこの手紙の中で、自らが受けた苦難について多く語ってきました。しかしその中で感じたのは、慰めや喜びでした。 | ||||
「わたしたちはだれにも不義を行わず…」とわざわざ書いているということは、パウロやその弟子たちが不義を行い、破壊し、だまし取っているといううわさが立っていたのでしょう。 | ||||
しかしパウロはその中でも、喜びを感じていたのです。その困難の中に、神さまの愛を感じ取っていたのかもしれません。そしてパウロは、「あなたがたはわたしたちの心の中にいる」と書きます。コリントの人たちも、神さまの愛のうちにいると伝えるのです。 | ||||
11月12日「コリントの信徒への手紙二7:8〜12」 | ||||
今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。 (コリントの信徒への手紙二7章9節) |
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今日の箇所の冒頭にある「あの手紙」とはコリントの第一の手紙ではなく、別のものだと考えられています。残念ながらその手紙は残されていません。パウロは涙ながらにその手紙を書いたようです。 | ||||
パウロの手紙はときに厳しく、読み手を委縮させてしまいます。しかしその背後には、パウロの大きな愛がありました。そしてコリントの人たちが悔い改めたということを聞いて、パウロは喜びにあふれたことでしょう。 | ||||
11節には「例の事件」という、当人同士にしか理解できない言葉が書かれます。このことからもパウロは常にコリントの人たちを思い、その歩みのために祈り続けていたことがわかります。教会の中でもそのような関係性が求められているのです。 | ||||
11月13日「コリントの信徒への手紙二7:13〜16」 | ||||
テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。 (コリントの信徒への手紙二7章15節) |
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テトスはパウロの協力者として、コリントの教会に派遣されていました。彼は割礼を受けていないことから、その両親はユダヤ人ではなかったと思われます。また彼自身もギリシア人でした。 | ||||
初期のキリスト教は、ユダヤ教の分派だと思われていました。パウロもユダヤ人ファリサイ派として歩んでいましたし、イエス様の最初の12弟子もすべてユダヤ人でした。いわゆる「民族宗教」の流れを汲んでいたのです。 | ||||
しかしその中でテトスのような異邦人がイエス様の福音を伝え、それを教会が受け入れていることに、テトスもパウロも喜びを感じていたのです。そのテトスやパウロの喜びが、キリスト教が世界に広がっていく原動力になったことでしょう。 | ||||
11月14日「コリントの信徒への手紙二8:1〜7」 | ||||
彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。 (コリントの信徒への手紙二8章2節) |
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ここからパウロは、現実的な問題について語っていきます。その問題とは、エルサレム教会が困窮していることです。パウロはそのためにコリントの人たちから献金を集め、エルサレム教会に届けていきます。 | ||||
このことは単に「施し」というだけではなく、ユダヤ人教会(エルサレム)と異邦人教会(コリント)とが一つの民となることも意味していました。相手の貧しさや痛みを共に担い、お互いに恵み豊かになっていくのです。 | ||||
わたしたちも献金をすることがあります。ただそれが、単なる慈善活動や施し、「〜してあげた」ということになってしまったとしたら、どんな意味があるのでしょうか。共に歩んでいくことが大切なのです。 | ||||
11月15日「コリントの信徒への手紙二8:8〜15」 | ||||
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。 (コリントの信徒への手紙二8章9節) |
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献金について、このように言われたことがあります。「献金は金持ちだけがすればいいことであって、わたしたちのような者からは集めるべきではない」。正直、とても悲しい気持ちになりました。 | ||||
パウロは、イエス様はわたしたちのために自分を貧しくされて、その結果わたしたちを豊かにされたのだと述べます。一番みじめな十字架の死を選び、そのことによってわたしたちに命を与えられたのです。 | ||||
そのイエス様がされたことにわたしたちも参与しようという一つの業が、献金です。イエス様がわたしたちに恵みをくださったように、わたしたちもまた、「進んで」おこなうことが大切なのです。 | ||||
11月16日「コリントの信徒への手紙二8:16〜24」 | ||||
わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。 (コリントの信徒への手紙二8章21節) |
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今も駅前などで、「街頭募金」がおこなわれていることがあります。また大きな災害がおこったあとにはコンビニなどにも募金箱が置かれ、テレビのニュースの中でも振込先が紹介されることがあります。 | ||||
ただこの「募金」という行為は、誤解を受けやすいのも事実です。誰にも非難されないように、また公明正大にふるまうように心がけることはとても難しいことですが、協力者を得ることによってパウロは批判を少なくしようとしていたようです。 | ||||
「宗教法人の会計」も、人々の目から誤解を受けやすいものです。「法人税が免除されている」ことだけがフォーカスされ、疑問の目を向けられることもしばしばです。だからこそわたしたちもまた、神と人の前に公明正大にふるまうことを求められているのです。 | ||||
11月17日「コリントの信徒への手紙二9:1〜5」 | ||||
わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。 (コリントの信徒への手紙二9章2節) |
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パウロは前の章で、献金に対する動機を語りました。それはイエス様がご自分を貧しくされてわたしたちを豊かにされた、その業に倣うということです。そしてここでは、献金する人の「熱意」について語ります。 | ||||
パウロはコリントの人たちの自発性を信頼し、彼らがパウロの言ったとおりに準備してくれることを期待していました。しかしその熱意がいつの間にか薄れ、「用意できなかった」とならないように釘をさしているようにも見えます。 | ||||
このように書くと、何だかパウロは献金を競って出させるように画策しているようにも感じます。しかし「惜しまず差し出す」ためには、このような激励の仕方も必要なのでしょうか。ちょっと違和感を覚えますが。 | ||||
11月18日「コリントの信徒への手紙二9:6〜9」 | ||||
各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。 (コリントの信徒への手紙二9章7節) |
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「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」。この言葉は、当時人々の間で良く知られていた格言でした。当たり前のことを言っているように感じます。 | ||||
パウロはこの格言を、献金を集める際に用いました。しかし一方でわたしたちは、レプトン銅貨2枚を献金する貧しいやもめを称賛されたイエス様(ルカ21:1〜4)の物語を知っています。 | ||||
大切なのは決められたからするということではなく、喜んでするということです。これは献金に限った話ではありません。教会の奉仕も当たったから仕方なくやるのではなく、進んでできればいいですね。 | ||||
11月19日「コリントの信徒への手紙二9:10〜15」 | ||||
なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。 (コリントの信徒への手紙二9章12節) |
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気前の良い献げ物、そして種まきと刈り入れの話を読むと、イエス様がなさった「種を蒔く人のたとえ(マルコ4:1〜9)」を思い出します。そのたとえの中で蒔かれた種は、いろいろな土地に落ちていきました。 | ||||
普通だったら「良い土地」を目指してそこだけに蒔けばよいのに、ここで種まく人(神さまのことを指しています)は、様々な土地に種をバラまいていきます。そして収穫を喜ぶのです。 | ||||
わたしたちの献げ物も、報酬目当てであってはいけないのです。神さまが気前よく福音をバラまかれたように、わたしたちも神さまからいただいた恵みを、周りの人たちと分かち合っていきましょう。 | ||||
11月20日「コリントの信徒への手紙二10:1〜6」 | ||||
わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。 (コリントの信徒への手紙二10章3節) |
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パウロは自分のことを、「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている」と書きます。真偽はともかく、パウロは自分は直接厳しく言えないから、このように手紙を書いているのだということでしょうか。 | ||||
近年、メールやフェイスブック、ネットのコメント欄など、読んでいてつらくなることがあります。匿名であろうがなかろうが、剣のような文字で人を傷つけていることに気づかない人も多くいるようです。 | ||||
しかしわたしたちは、肉(自分の思い)に従うのではなく、イエス様の優しさに倣って生きていきたいものです。わたしたちはどんなときも、神さまの愛を伝える者でありたいと思います。 |