11月 1日「コリントの信徒への手紙二4:1〜6」 | ||||
わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。 (コリントの信徒への手紙二4章5節) |
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自分は使徒であることを強調するパウロですが、それは決して自分を大きく見せようとするためにしていることではありません。「自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」と書いてある通りです。 | ||||
わたしたちには「キリストの福音」を伝えているつもりが、「自分」を語ってしまうことはないでしょうか。キリスト教の教派によっては、「証し」という自分自身の体験を語る時間を大切にしているところがあります。 | ||||
しかしそれが、単なる「自分語り」になってしまったら、元も子もなくなるのです。わたしたちは神さまの栄光を賛美し、イエス様を通して示された神さまの愛を伝えていくことを求められているのです。 | ||||
11月 2日「コリントの信徒への手紙二4:7〜15」 | ||||
わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 (コリントの信徒への手紙二4章10節) |
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今日の箇所の最初にパウロは、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」と書きます。ここでいう宝とは、いったい何のことでしょうか。黄金や財宝でしょうか。それとも名誉や地位でしょうか。 | ||||
パウロがいう宝とは、「福音(神さまからいただいたグッドニュース)」や神さまから与えられた「光」ではないかと思います。それらは神さまの憐れみの中で与えられました。ここでいう憐れみとは、「本来それを受ける権利のない者にも与えられるもの」です。 | ||||
その宝があるからこそ、わたしたちはイエス様と共に死に、そしてイエス様と共に復活の命にあずかることができるのです。その宝の本当の価値を知っているからこそ、わたしたちは歩むことができるのです。 | ||||
11月 3日「コリントの信徒への手紙二4:16〜18」 | ||||
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 (コリントの信徒への手紙二4章18節) |
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わたしたちは日々の生活の中で、落胆することがあります。自分に与えられたものの小ささや肉体の衰えに気がつくとき、また自分の力だけでは歩んでいくことが難しいと感じるときに、わたしたちは落胆します。 | ||||
しかし見えるものではなく、見えないものに目を注ぐようにとパウロは語ります。目に見えないものとは一体何でしょう。それは神さまの愛です。神さまがわたしたち一人一人を愛し続けるという希望です。 | ||||
目に見えない空気がなければわたしたちは生きられないように、わたしたちの心の養いのためには神さまが必要なのです。目には見えないからこそ、永遠に存続する神さまの愛に信頼し、歩んでまいりましょう。 | ||||
11月 4日「コリントの信徒への手紙二5:1〜5」 | ||||
わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。 (コリントの信徒への手紙二5章2節) |
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4章の後半から続くこの箇所は、日本聖公会の通夜の祈りの式文に用いられることがあります。「地上の住みかである幕屋」をわたしたちの肉体に見立て、それが滅びたとしても神さまによる建物が備えられているという言葉に希望を見出すのです。 | ||||
わたしたちの幕屋には、さまざまな重荷があります。悩みや悲しみ、苦しみや痛みなど、この世で生きている中でいつも、わたしたちは病気など、たくさんの重荷を抱えながら歩んでいくのです。 | ||||
その重荷を共に担う方が、いつもそばにおられます。そして重荷を下ろした後も、わたしたちの前には「天にある永遠の住みか」があります。そこに住むことができるのは、わたしたちの力によるのではありません。神さまがわたしたちを、ふさわしくしてくださるのです。 | ||||
11月 5日「コリントの信徒への手紙二5:6〜10」 | ||||
だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。 (コリントの信徒への手紙二5章9節) |
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この世界で生きている中で、わたしたちは心の平安を求めます。苦難の中にあるときに、神さまがいつも支えてくださることを望みます。「目に見えないもの」に目を注ぐとき、わたしたちの心は強くされます。 | ||||
そしてわたしたちの肉体が死を迎え、わたしたちが神さまの元に行くことになっても、わたしたちには「主のもとに住む」という希望が与えられています。その希望を持ち続けることを、「信仰」と呼ぶのです。 | ||||
イエス様はヨハネ福音書の中で、「わたしは場所を用意しに行く」と約束されました。わたしたちはこの地上においても、そして天の御国に行っても、憩う場所が与えられていることを覚えていきたいと思います。 | ||||
11月 6日「コリントの信徒への手紙二5:11〜15」 | ||||
その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。 (コリントの信徒への手紙二5章15節) |
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「和解」という言葉があります。「当事者が互いに譲歩をしてその間に存する争いをやめること」という意味だそうです。キリスト教では、神さまと人間の間における「和解」ということが語られます。 | ||||
神さまは人間の罪を、イエス様の十字架の贖いによって赦されました。そこに和解が生まれたのですが、人間側からの譲歩はまったくありません。神さまが一方的に譲歩し、和解してくださったのです。 | ||||
そしてわたしたちは、多くの人たちもまたすでに、神さまと和解していることを伝えていきたいと思います。「イエス様の十字架はあなたのためにおこなわれたことなのです」と伝えることが大事なのです。 | ||||
11月 7日「コリントの信徒への手紙二5:16〜21」 | ||||
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。 (コリントの信徒への手紙二5章16節) |
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「肉に従う」というのは、自分の思いや力、能力によって生きていくということです。わたしたちもすべてがうまくいっているときには、そのようなことが可能だと思っていたかもしれません。 | ||||
しかし「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とあるとおり、イエス様が十字架で血を流されたことよってこれまでの生き方とは違う、まったく新しい歩みが用意されているのです。自分に頼る必要はないのです。 | ||||
それが、神さまとの「和解」です。「神と和解させていただきなさい」とパウロが書くように、神さまがわたしたちに対して伸ばされて手を受け止め、イエス様を心に受け入れることが大切なのです。 | ||||
11月 8日「コリントの信徒への手紙二6:1〜10」 | ||||
なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。 (コリントの信徒への手紙二6章2節) |
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「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」とパウロは書きます。この「時」とは、神さまのみ旨に適った時という意味です。「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある」というコヘレトの言葉3章1節が思い出されます。 | ||||
パウロやその同労者たちは、人々から誤解されることが多くあったようです。辱めを受けることも、悪評を浴びることもあったようですが、そのときも「左右の手に義の武器を持ち」、神さまに仕えていきました。 | ||||
その結果、「悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」とその恵みを喜びます。わたしたちも神さまのお恵みを、パウロのように感じることができればと思います。 | ||||
11月 9日「コリントの信徒への手紙二6:11〜13」 | ||||
子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。 (コリントの信徒への手紙二6章13節) |
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パウロは愛をもって、コリントの信徒の人たちに語りかけてきました。しかし彼らは心を閉ざし、パウロの言葉を受け入れることができなかったようです。「彼は使徒ではないのに」という批判的な声もあったのかもしれません。 | ||||
パウロは前に出したコリントの信徒への手紙一の中で、「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです(一コリ4:14)」とも書いていました。 | ||||
パウロの願いはコリントの人たちが神さまに愛されていることを知り、イエス様の十字架によって神さまの前に立つことが赦されたことに気付いて欲しいということです。そしてその思いは、わたしたちにも向けられているのではないでしょうか。 | ||||
11月 10日「コリントの信徒への手紙二6:14〜18」 | ||||
あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。 (コリントの信徒への手紙二6章14節) |
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パウロといえば、ユダヤ人だけでなく異邦人にも神さまの救いは与えられていると説く、いわゆる普遍的な救いを強調している人物です。しかしこの箇所を見る限り、少し排他的な考え方が見られるようにも思います。 | ||||
「信仰のない人と一緒に…つながれてはなりません」と書いたり、当時ユダヤ人の間で悪霊を指すのに用いられていた言葉「ベリアル」とキリストを対比させてみたり、そのような対立の構図を作り上げているかのようです。 | ||||
さらに16節の後半から18節で、パウロは旧約聖書のレビ記・サムエル記・イザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書から引用して語ります。「汚れたものに触れるのをやめよ」という言葉は、パウロのこれまでの語りとは方向が違うようにも感じます。 |