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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2024年10月1日〜10日

10月 1コリントの信徒への手紙一13813
 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
(コリントの信徒への手紙一13章13節)
ここでパウロは、預言や異言や知識と、愛とを対比させます。聖書の愛という言葉は原語のギリシア語では「アガペー」という単語であり、わたしたちが日常的に使っている異性間の愛とはニュアンスが少し違います。
異性間の愛は、ギリシア語では「エロース」です。「アガペー」は簡単にいうと、見返りを求めず、一方的に注がれる愛のことです。昔、日本に聖書が入って来たとき、ある翻訳者はこの言葉を「御大切」と訳しました。
まず神さまがわたしたちにシャワーのように愛を注がれ、その愛をわたしたちは周りの人にもお裾分けする。その根底が、一番大切なのだとパウロは語ります。これは結婚式の説教でも、よく語られる言葉です。
10月 2コリントの信徒への手紙一1415
 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。
(コリントの信徒への手紙一14章4節)
昨日の箇所でパウロは、霊的な賜物である預言・異言・知識は愛という最高の賜物と違い、やがて廃れていくのだと語ります。コリントの人たちは、「熱狂主義」と呼ばれる人たちの行為についてパウロに質問していました。
彼らの中には、預言や異言を語っていた人たちがいました。「預言」とは未来の予告である「予言」とは違い、神さまの言葉を預かるという意味があります。聖書の言葉などを説き明かして、神さまの思いを人に伝えるのです。
それに対して「異言」は、周りの人には理解できない言葉を語る、神さまへの語りです。それは自分のためだけのもので、教会のためにはならないとパウロは指摘します。わたしたちの信仰は、周りの人たちと共有しながら強められていくのです。
10月 3コリントの信徒への手紙一14612
 あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。
(コリントの信徒への手紙一14章12節)
「教会用語」という言葉があります。簡単にいうと、教会でしか通用しない言葉です。教会に行き始めたとき、週報に、○○兄、○○姉と書かれているのを見て、「何で弟や妹は参加していないんだろう?」と疑問に思ったことがありました。
「主日」、「贖い」、「救い」、「罪」、「陪餐」、「預言」などなど、わたしたちにとっては日常語でも、初めて聞く人には外国語(あるいは自分が知っている意味と違う言葉)に聞こえてしまうことも多くあります。
それらの言葉は、異言と変わらないのかもしれません。わたしたちは何のために語るのか。それは神さまの愛を伝え、教会を造り上げるためです。であるならば、相手に届く言葉を語る必要があるのではないでしょうか。
10月 4コリントの信徒への手紙一141319
 では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。
(コリントの信徒への手紙一14章15節)
日本聖公会は、「聖書・伝統・理性」を重んじ、あらゆる絶対主義を否定し、解釈し続ける共同体だといわれます。聖書だけを絶対視せず、伝統だけにとらわれず、理性によって模索しながら歩んでいく教会です。
パウロはここで、「理性」について語ります。「異言を語る賜物」は確かに素晴らしいものなのでしょう。しかしその力を自分のものだけにしてしまい、ただ人に対して誇示するだけであれば、そこに何の意味があるのかということです。
そうではなく、教会を形成するためにどう生かしていくのか、「理性」によって求めていきなさいと伝えるのです。それは何よりも、新しく教会に加わる人のためにということです。この考え方は、わたしたちの教会にも必要なことなのでしょう。
10月 5コリントの信徒への手紙一142025
 このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。
(コリントの信徒への手紙一14章22節)
パウロはここで、「子ども・幼子」と「大人」という言葉を用います。子どもは与えられたものに対して有頂天になり、人に見せびらかせてしまいます。異言を人前で語るというのはそういうことだよ、とパウロは語るのです。
そうではなく、大人になりなさい。興奮した状態のままで礼拝に参加するのではなく、理性をもって周りを見渡し、新しく来た人たちをつまずかせないように配慮しなさいというのがパウロの主張です。
ただ24節の、「信者でない人が預言によって罪を指摘され、ひれ伏して神さまを礼拝する」という目的については、少し怖い気がします。教会がそのような裁きの場になるのも、何か違うような気がします。
10月 6コリントの信徒への手紙一142632
 解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。
(コリントの信徒への手紙一14章28節)
パウロは今日の箇所で、異言と預言に関する議論を終えます。当時コリントの教会では、礼拝に参加している人が口々に異言を語り、全体の雰囲気を作っていたようです。パウロはそうではなく、秩序ある礼拝をするように求めます。
異言を語る人は、旧約聖書にも出てきていました。ただそこに解釈がなければ、ただの興奮状態です。それでは新しく来た人はどう思うのだろうか、ということをパウロは伝えようとしているのです。
現代も異言を語る教会があります。パウロは異言を語ることを禁止しようとしたのではなく、それが礼拝の中心に位置づけられることによって、礼拝自体が無秩序になっていくことを危惧したのでしょう。わたしたちも「理解できる言葉」で神さまの言葉を語りましょう。
10月 7コリントの信徒への手紙一143340
 それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。
(コリントの信徒への手紙一14章36節)
聖書の言葉は、時に剣になります。今日の箇所には「婦人たちは、教会では黙っていなさい」という言葉があります。この言葉を礼拝の中でそのままメッセージとして語ると、大変なことになるでしょう。
この言葉だけをみると、パウロは女性蔑視をしているようにみえてしまいます。しかし使徒言行録や手紙の中で、パウロは女性たちも同労者として認めていました。今日の箇所の女性観は、ユダヤ社会の中で一般的なものだったのでしょう。
最後にパウロは、預言することを熱心に求めるように語ります。しかし異言を語ることについては、禁じてはならないとも言います。「あれはいい、これはダメ」ではなく、どのように生かしていくのかが大切なのです。
10月 8コリントの信徒への手紙一15111
 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。
(コリントの信徒への手紙一15章9節)
アメイジング・グレイスという聖歌があります。ジョン・ニュートンという英国の牧師が作詞した曲です。彼は若い頃、奴隷貿易に関わっていました。しかし22歳の時に転機が訪れます。
彼の乗っていた船が転覆の危機に陥り、そのときに彼は必死に神さまに祈ります。そのとき、彼は神さまの恵みを感じたのでしょう。後に作詞された「アメイジング・グレイス」は、多くの人の心を打ち、今も愛されています。
パウロはここで、神さまの恵みによって自分も変えられたと語ります。神さまの恵みとは、復活のイエス様との出会いです。そしてわたしたちも復活のイエス様と出会い、変えられていくのです。
10月 9コリントの信徒への手紙一151219
 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
(コリントの信徒への手紙一15章17節)
キリスト教の中心は、十字架と復活だと言っていいと思います。イエス様の十字架によってわたしたちの罪は贖われた。そしてイエス様の復活によって、「わたしはいつまでもあなたがたと共にいる」と約束された。
しかし十字架は歴史的事実なのに対して、復活は「科学的証明」ができないものです。そのため現代でも、復活や聖霊についてはなかなか受け入れることができないという方もおられます。
しかし、神さまがそのようにしてまでわたしたちを愛しておられるという、聖書に通奏低音のように流れる思いに立ったとき、わたしたちの常識の中で神さまの恵みを測ること自体おかしなことかもしれません。人にはできなくても、神さまにはすべてが可能なのです。
10月 10コリントの信徒への手紙一152028
 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
(コリントの信徒への手紙一15章22節)
イエス様はどうして復活なさったのでしょうか。それは福音書の復活物語にあるように、「あなたがたに平和があるように」と伝えるためです。また今日の箇所に書いてあることも、その理由の一つです。
それは、「すべての人を生かす」ということです。最初の人アダムの罪(神さまに食べてはならないと命じられていた木の実を食べてしまった)によって、人間は死に定められていました。
しかしイエス様が自ら陰府(よみ)に下り、そこから人々をいのちへと導かれたのです。そのいのちをわたしたちすべての人がいただくことが、神さまの大きな願いなのです。この言葉は、わたしたちにとって素晴らしい福音です。

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