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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2024年9月21日〜30日

921コリントの信徒への手紙一11716
 いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。
(コリントの信徒への手紙一11章11節)
当時の社会の中では女性は弱い存在とされ、男性によって守られるべきものだと考えられていました。そこで女性は男性から力をいただいているしるしとして、かぶりものをしていたそうです。
コリントのある人たちは、「そんなことしなくても神さまが守ってくれる」と考え、女性がかぶりものをするのをやめさせました。しかしそのことによって混乱が生じたため、パウロは女性にかぶりものをするように命じます。
その理由を知ると、とても滑稽なことをしているように感じます。しかし「何かが変わっていく」過程で、信仰の弱い人がつまずいてしまわないように、コリントの人たちに配慮するようにとパウロは求めるのです。
922コリントの信徒への手紙一111722
 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
(コリントの信徒への手紙一11章21節)
ここからパウロは、本質的な問題に入っていきます。そのテーマは「主の晩餐」です。ただし今日の箇所で取り上げられているのはわたしたちが知る「聖餐式」ではなく、日ごとの食事のようです。
コリントの人たちは週日(平日のこと)の夕方も集まって、一緒に食事をしていたようです。そしてそのときには、各自で自分の分を持ち寄って飲み食いをしていたと考えられています。
しかしそのときに、「仲間割れ」が生じたようです。教会でも「気の合う仲間」で固まってしまい、周りの人に気を配ることの出来ない状態が見られることがあります。イエス様は、「みんなで食卓を囲む」ことを求められています。
923コリントの信徒への手紙一112326
 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
(コリントの信徒への手紙一11章26節)
今日の箇所を読んだときに、「あれ?聞き覚えがあるぞ」と感じた人は多いと思います。聖公会の聖餐式の感謝聖別の中では、今日の言葉が司祭によっていつも唱えられているからです。
パウロは混乱の中にあるコリントの教会の人たちに、イエス様が定められた「主の晩餐」に立ち返るように求めます。この晩餐は単なる食事ではなく、福音書にも記されているものであり、イエス様が「このように行いなさい」と言われたことなのです。
24節に「これを裂き」という言葉が出てきます。聖餐式の中で司祭は、このときに大きなウエハースを裂きます。それはイエス様がわたしたちのために裂かれ、死に引き渡されたしるしです。わたしたちはその死を礼拝の中で、いつも想起していくのです。
924コリントの信徒への手紙一112734
 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
(コリントの信徒への手紙一11章29節)
聖公会の祈祷書には、162頁から聖餐式の式文が書かれています。その直前の160〜161頁には、「このような人は陪餐してはならない・させてはならない」ということが書かれています。今日の箇所の、「ふさわしくないままで」という言葉が思い起こされます。
聖餐式で陪餐を受ける前に、わたしたちは何を祈るべきでしょうか。「思いと、言葉と、行いによって」罪を犯し続ける自分の姿を顧み、心から悔いる。そのことが大切なのではないでしょうか。
そして主の食卓を、互いに喜びながら守っていきたいと思います。わたしたちが陪餐に与るのはいのちをいただくためです。決して裁かれるために、集まっているのではありません。そのことを心に留めたいと思います。
925コリントの信徒への手紙一1213
 あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。
(コリントの信徒への手紙一12章2節)
パウロは続いて、「霊的な賜物」について触れます。おそらくこのことも、コリントの教会から質問されていたことでしょう。「霊」や「聖霊」は目に見えないので、なかなか理解が難しいところです。
コリントは港町で、様々な文化が交差する場所でした。そのためコリントの教会の人たちも、以前は異教徒として偶像を拝んでいました。そのときのことを、「悪霊の力によって」連れていかれたと解釈していたかもしれません。
コリントの人たちは、「霊の力」については受け入れていたようです。しかし霊的熱狂に傾いてしまっている人たちもいました。パウロはそのことも踏まえ、「霊的賜物」について伝えていきます。
926コリントの信徒への手紙一12411
 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
(コリントの信徒への手紙一12章11節)
パウロは、賜物は霊、務めは主(イエス)が与え、働きは神がなさると書きます。父・子・聖霊がわたしたちに様々な形で関わっているということを伝えたいのでしょう。ただし三位一体の教理はここではまだ確立していません。
さてパウロは、霊が与える賜物について語ります。知恵の言葉や知識の言葉、信仰や病気をいやす力、奇跡をおこなう力や預言する力などなど、様々な力(賜物)がそれぞれの人に応じて与えられるというのです。
コリントの人たちは、そのような賜物は特別な人にだけ与えられると思っていました。わたしたちも同じように思っているかもしれません。しかし霊は、望むままにそれを一人一人に分け与えられるのです。
927コリントの信徒への手紙一121218
 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
(コリントの信徒への手紙一12章17節)
「多様性の一致」という言葉があります。そのことをあらわすのに、パウロは人間の体とその肢体を用いて表現します。ローマの信徒への手紙12章にも同じようなことが書かれています。
コリントに限らず、教会の中でも優劣が語られたり、違いによって排除されたりすることがあります。ここではいわゆる「弱い人」が「強い人」に対して語っている内容のようです。
「わたしには賜物がないから」、「わたしはあの人のように信仰深くないから」、そのような考えはないでしょうか。教会はそうではなく、すべての人、多くの部分から成り立っています。そしてどこかが欠けても、いけないのです。
928コリントの信徒への手紙一121926
 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
(コリントの信徒への手紙一12章26節)
教会の中で優劣を決めたがるのは、人間的な思いが原因です。コリントの教会では霊的な賜物を「得ている」と思い込んでいる人が自分を誇り、他の人たちを自分より下に見ていました。
そのような人たちが、「お前はいらない」、「あなたは教会の役に立っていない」と蔑み、否定していたのです。しかしパウロは、人から見て弱く見える部分ほど、必要なのだと語ります。
そしてお互いに配慮しあうときに、「共に喜び、共に泣く」という共感が生まれていくのです。わたしたちの教会ではどうでしょうか。共に喜んでいますか。苦しみを一緒に抱えていますか。
929コリントの信徒への手紙一122731
 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。
(コリントの信徒への手紙一12章29節)
パウロは改めて、教会を体と肢体にたとえます。そしてここでは、その部分によって一人一人はキリストの体を形作っているとも書きます。この考え方は、わたしたちに新しい気づきを与えてくれます。
わたしたちは教会の一員として奉仕をしている意識はあると思います。しかしそれだけではなく、わたしたちはキリストという体の一部なのです。というよりイエス様が、わたしたちを自らの体に組み込んでくださっているということでしょう。
そしてわたしたちは与えられた賜物によって、それぞれの働きをおこないます。隣の人と同じことなどできなくていい。また陰で支える人も必要です。みんな違って、みんないいのです。
930コリントの信徒への手紙一1317
 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
(コリントの信徒への手紙一13章2節)
ここでパウロは、愛について語りだします。この箇所は結婚式でも読まれることが多く、「愛の賛歌」と呼ばれることもあります。パウロはこの手紙でコリントの人たちに、分裂せずに一致するように勧めてきました。
そしてそのためには、愛が重要であることを伝えます。4節から6節に書かれている「忍耐強い」、「情け深い」、「ねたまない」、「自慢せず高ぶらない」といった言葉を聞くと、なかなかそうなれない自分にも気づかされます。
教会が分裂するとき、その根底にはお互いがお互いを大切にせず、自分の言いたいことを主張し続ける実態があると思います。そのようなことでは教会やわたしたちは、キリストの体にはなれないのではないでしょうか。

バナースペース

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