9月11日「コリントの信徒への手紙一8:7〜13」 | ||||
ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。 (コリントの信徒への手紙一8章9節) |
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昨日の箇所に書かれていた「偶像に供えられた肉」に関して、パウロは続けます。そのような肉を食べたからといって汚れることなどないと確信できる人は、「強い人」だと言えるかもしれません。 | ||||
しかし共同体の中には「そんなことして大丈夫なの?」と肉を食べるのを躊躇する人や、肉を食べたものの「こんなことしてしまった」と罪悪感にさいなまれる人も出てくるかもしれないのです。 | ||||
パウロが言いたいのは、そのような「弱い人」を傷つけてはならないということです。教会にもいろんな人がいます。「このようなことは当たり前」という思いで周りの人を追い詰めることは避けていきましょう。 | ||||
9月12日「コリントの信徒への手紙一9:1〜10」 | ||||
あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。 (コリントの信徒への手紙一9章6節) |
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パウロやバルナバは異邦人伝道をしていました。それに対してイエス様の兄弟ヤコブやケファ(ペトロ)はエルサレム教会で働いていました。エルサレム教会では、「使徒」の働きを金銭的に信者が支えていたようです。 | ||||
しかしパウロは、自分も使徒であるにもかかわらず、そのような援助がないことを不満に思っていたようです。ただパウロが使徒であるということすら、疑問を持たれていたようですが。 | ||||
「牧師も自分で稼いだらどうだ」と主張する声を聞くことがあります。現在の教会では、幼稚園の園長や学校のチャプレンを兼務することも多くあります。しかし本来は、いつも神さまと地域の人たちに心を傾けることが必要なのかもしれません。 | ||||
9月13日「コリントの信徒への手紙一9:11〜18」 | ||||
同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。 (コリントの信徒への手紙一9章14節) |
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パウロはテント職人として、収入を得ていました。昨日の箇所では、「なんで自分も使徒なのに、みんなは金銭的に支えてくれないの?」と文句たらたらのようにも思えましたが、今日は違います。 | ||||
「こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです」とパウロは書きます。もしも「わたしたちの献金をあなたの伝道に用いて下さい」と言われても、「いや、いらない」と断るということでしょう。 | ||||
だからすべての伝道者は、教会からの補助を受けずにやりなさいというわけでは決してありません。「弱い者に配慮しなさい」とコリントの人たちに言っておいてこう宣言するパウロは、正直矛盾しているように思います。 | ||||
9月14日「コリントの信徒への手紙一9:19〜23」 | ||||
弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。 (コリントの信徒への手紙一9章22節) |
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「郷に入っては郷に従え」という言葉があります。わたしが最初に遣わされた教会の横には、地域で一番大きな神社がありました。町内会の行事の中には、宗教的なものも多くありました。 | ||||
しかしそこで町内会長もさせていただき、地域の方々ともかなり親しくなりました。キリスト教の救いに導くことがなかったとしても、とても意義のある時間でした。現在勤務している奈良でも、積極的に他宗教の人との交流に出かけています。 | ||||
「すべての人に対してすべてのものになる」、自己主張を捨てて相手に合わせることに、疑問を持つ方もおられるかもしれません。しかしそれこそが、神さまの愛につながる行為なのです。 | ||||
9月15日「コリントの信徒への手紙一9:24〜27」 | ||||
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。 (コリントの信徒への手紙一9章24節) |
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パウロはフィリピの信徒への手紙3章14節でも、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と書いています。 | ||||
「賞」や「競争」という言葉をパウロは好んで用いますが、わたしたちの信仰理解とは少し違うのかもしれません。「自分だけ特別に頑張った」から「神さまに認められる」というのはどうも、自己満足な気がします。 | ||||
それよりもゆっくりお祈りする人にスピードを合わせたり、礼拝が始まるギリギリの時間に階段を上っている人と歩調を合わせたりする。一人だけで賞を受けるよりも、大切なことのように思います。 | ||||
9月16日「コリントの信徒への手紙一10:1〜6」 | ||||
しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。 (コリントの信徒への手紙一10章5節) |
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この10章で、パウロは偶像への礼拝について語ります。そしてその冒頭には、「わたしたちの先祖」について書きます。モーセという名があるように、パウロは出エジプトの出来事について触れていきます。 | ||||
イスラエルの人々は、荒れ野で40年間さまよいました。その間、昼は雲の柱、夜は火の柱によって導かれます。また紅海がさけ、その中を彼らは歩きました。そのことをパウロは、「洗礼の予型」だと言います。 | ||||
また天からのパンであるマナと岩から出る水によって養われたことを、「聖餐の予型」だとします。しかしそのイスラエルの民のほとんどは、荒れ野で滅ぼされてしまいます。そのこととコリントの人たちがどう関係するのか、明日以降語られます。 | ||||
9月17日「コリントの信徒への手紙一10:7〜13」 | ||||
これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。 (コリントの信徒への手紙一10章11節) |
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パウロはここで、出エジプトの際に滅ぼされたイスラエルの人々について言及します。彼らは偶像を礼拝し、みだらなことをし、神さまを試み、不平を言い続けました。そのため滅んでしまったのです。 | ||||
ここで覚えておきたいのは、昨日の箇所で触れたように彼らの出エジプトの出来事は「洗礼と聖餐の予型」だということです。しかし「洗礼と聖餐」に与ったとしても、神さまの怒りを逃れることはできなかったのです。 | ||||
コリントの人たちは、自分たちはすでに洗礼と聖餐の恵みの中にいるのだからもう安心だと考えていました。そして放縦な生活をしていましたが、その先には滅びが待っているということをパウロは伝えるのです。 | ||||
9月18日「コリントの信徒への手紙一10:14〜22」 | ||||
パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。 (コリントの信徒への手紙一10章17節) |
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「偶像礼拝」と聞くと、何を思い浮かべるでしょうか。キリスト教の教派によっては他宗教のお葬式に出席するのを禁じたり、初詣に行くこともダメだと教えたりするところもあります。 | ||||
ただわたしたちがあまりにも排他的にこの言葉を捉えてしまい、周りの人たちを避けて歩むのであれば、それは神さまのみ心とは違うように思います。イエス様は罪人や徴税人と一緒に食事をしました。 | ||||
イエス様は、人々が排除している人たちから自分の身を「避ける」のではなく、共に歩まれました。パンを皆で共に食べるために、わたしたちはこの地に遣わされています。「避ける」のではなく「受け入れる」、そのことができればと思います。 | ||||
9月19日「コリントの信徒への手紙一10:23〜33」 | ||||
ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。 (コリントの信徒への手紙一10章32節) |
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パウロは偶像に供えられた肉について、「食べなさい」と言ったり「食べるな」と言ったり、一貫していないようにも感じます。しかしよく読むと、「神殿では食べるな」、「市場で買ったものは食べなさい」ということのようです。 | ||||
24節に「自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」とあるように、わたしたちは与えられた自由を自分のためではなく、目の前の人のために用いるようにと促されています。 | ||||
わたしたちが生きるのは、他人を惑わすためではなく喜ばすためなのだとパウロは書きます。コリントの人たちが自分を誇り他人を見下していたように、わたしたちもなっていないか、考える必要があるのでしょう。 | ||||
9月20日「コリントの信徒への手紙一11:1〜6」 | ||||
ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。 (コリントの信徒への手紙一11章3節) |
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パウロは手紙の中で、「男・夫」、「女・妻」という言い方をすることがあります。「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」というエフェソの信徒への手紙5章21節〜などは結婚式でも読まれることがありますが、今の時代的にはどうかという箇所です。 | ||||
カトリック教会などでは、ベールをかぶった女性の姿を見ることがあります。また男性が帽子をかぶって礼拝堂に入ったら、脱ぐように促されることがあります。この箇所が元になった伝統かもしれません。 | ||||
ただ、「男性だから」、「女性だから」という言葉は、当時の時代背景や社会状況が大きく影響していることを覚えておきたいと思います。聖書はそれぞれの時代や文脈で解釈し続ける必要がある書物なのです。 |