9月 1日「コリントの信徒への手紙一6:1〜8」 | ||||
あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。 (コリントの信徒への手紙一6章5節) |
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コリントの教会内で信徒同士の財産問題などが生じたときに、彼らは教会の外の公的な裁判で処理をしていました。パウロはそうではなく、自分たちの仲間内で解決するようにしなさいと言います。 | ||||
外部監査や第三者委員会という言葉が当たり前になったわたしたちからすると、パウロの言葉は時代錯誤のように聞こえます。教会内で起こった問題をもみ消すように指示しているとも感じられます。 | ||||
しかし、パウロが言いたかったのはそこではありません。神さまに集められた共同体の中での裁きは、最終的に神さまに委ねられるということです。ただ現代の教会は、やはり外部の目に見てもらう必要はあると思いますが。 | ||||
9月 2日「コリントの信徒への手紙一6:9〜11」 | ||||
あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。 (コリントの信徒への手紙一6章11節) |
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パウロはここで「悪徳表」を挙げ、「正しくない」とはどういうことなのかを具体的に示します。このような記述があると、わたしたちはまず自分に当てはまるものがないかを確認します。 | ||||
そして次にわたしたちがしがちなことは、「あの人はこれに当てはまっている」、「あの人はこれだから正しくない」と他人を批判する材料にしてしまうことです。しかしイエス様が「人にばかという人は、人を殺していることになる」と言われたことを思い出しましょう。 | ||||
わたしたちは誰一人、正しい者ではありません。しかしわたしたちは洗礼によって新しくされ、神さまの前に義とされているのです。そのことを、いつも心に覚えておきたいと思います。 | ||||
9月 3日「コリントの信徒への手紙一6:12〜20」 | ||||
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。 (コリントの信徒への手紙一6章19節) |
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5章からここまでパウロは、「みだらな行い」について論じてきました。それはコリントの人たちやパウロの論敵たちが、このように言っていたからです。「わたしには、すべてのことが許されている」と。 | ||||
イエス様の十字架により、すべての罪が赦され自由となった。そのように人々は理解しました。ただその結果、「みだらな行い」をしてもかまわないという、間違った方向へと進んでいったのです。 | ||||
わたしたちの身体は、聖霊が宿る神殿なのだとパウロは書きます。わたしたちの思いではなく、神さまのみ心のためにわたしたちの身体を用いることができれば、どれほど素晴らしいことでしょうか。 | ||||
9月 4日「コリントの信徒への手紙一7:1〜7」 | ||||
わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。 (コリントの信徒への手紙一7章7節) |
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ここからパウロは、コリントの信徒から出た質問について答えていきます。ただしこれはパウロの牧会的配慮の中から書かれた答えであって、絶対的な真理ではないことにも注意が必要です。 | ||||
コリントの教会の中には、禁欲を重んじそれを尊ぶグループと、すべてのことが許されているからと性的放銃に走るグループとがあったようです。その両者が互いに反目し合い、パウロに助言を求めてきたのでしょう。 | ||||
パウロの答えをそのまま現代のわたしたちが読むと、首をひねってしまう表現も出てきます。しかしここでパウロが言いたいのは、「人によって生き方が違います」ということです。わたしたちもそれぞれの生き方を尊重していきたいものです。 | ||||
9月 5日「コリントの信徒への手紙一7:8〜11」 | ||||
しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。 (コリントの信徒への手紙一7章9節) |
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昨日の箇所でも書いたように、この結婚や離婚についての言葉はあくまでもパウロの個人的な思いです。この文言を盾に、「このように書いてあるからこれに従いなさい」というのはかなり乱暴です。 | ||||
聖書が書かれた時代の社会状況と、今とは大きく違います。DVなどによって離婚を考えている人に対して、「いや、聖書には『妻は夫と別れてはいけない』、『夫は妻を離縁してはいけない』と書いてある」と言ったら、どれだけその人を傷つけるでしょうか。 | ||||
イエス様は律法に書かれたことだけを忠実に守ろうとするファリサイ派とは違い、目の前にいる人を「生かす」にはどうしたらよいかを最優先されました。わたしたちも聖書の言葉だけを絶対視せず、人を生かすものとして読んでいきたいと思います。 | ||||
9月 6日「コリントの信徒への手紙一7:12〜16」 | ||||
妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。 (コリントの信徒への手紙一7章16節) |
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教会には、いろんな信徒さんがおられます。〇代目の信徒さん、家族全員が信徒さんという場合もあれば、家族の中で自分一人が信徒だという方もおられます。配偶者は信徒ではないという方も、結構おられます。 | ||||
その方々にとって、14節の言葉は福音となることでしょう。自分を通して妻や夫も聖なる者となる、つまり神さまが関わってくださるというのですから。そして、さらなる広がりにも期待します。 | ||||
父母も、兄弟も、近所の人も、会社の人も、学校の友達もみんな、自分を通して神さまが関わって下さったらどうでしょうか。すべての人が聖なる者とされ、神さまの元に歩んでいく。そのような世界をきっと神さまも望んでおられるのです。 | ||||
9月 7日「コリントの信徒への手紙一7:17〜24」 | ||||
おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。 (コリントの信徒への手紙一7章17節) |
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「現状のままでいる」、今日の箇所をそのポイントで読んでしまうと、向上心もなく改革することもなく、与えられた環境の中でそのまま過ごすことが良いことのように思えてしまいます。 | ||||
この手紙が書かれたころ、すぐにでもイエス様が再臨され、世界は終末へとすすんでいくと考えられていました。その中で、「そのままとどまりなさい」というパウロの言葉は語られたのです。 | ||||
パウロが手紙を書いた時代とは、終末への期待などがかなり変わっていることに注意したいと思います。しかし同時に、神さまの前では自分を無理に変える必要がないということは、押さえておきたいと思います。 | ||||
9月 8日「コリントの信徒への手紙一7:25〜35」 | ||||
このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。 (コリントの信徒への手紙一7章35節) |
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パウロの結婚観を簡単にまとめると、「結婚すると苦労する」ということになりそうです。神さまに集中するためには、妻の存在は足かせになるということでしょうか。ただしこれは、この手紙を書いた時期が「危機が迫っている状態」だから言えることです。 | ||||
結婚する自由も、結婚しない自由も、わたしたちには与えられています。結婚しているからといって、誰もが皆、心が二つに分かれてしまうわけではないでしょう。結婚していても、神さまに心を向けることはできると思います。 | ||||
カトリック教会では、聖職者が妻帯することは一般的には認められていません。このパウロの考え方が根底にあるのではないかと推察します。しかし一方、初代教皇のペトロにはしゅうとめがいた、つまり妻がいたという事実もあるわけです。 | ||||
9月 9日「コリントの信徒への手紙一7:36〜40」 | ||||
しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。 (コリントの信徒への手紙一7章40節) |
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パウロがこれほどしつこく結婚について書いているところをみると、コリントの人たちにとってこのことは大きな問題であったようです。独身のパウロにとって、なぜみんなわざわざ結婚するのか、不思議だったのかもしれません。 | ||||
パウロは改めて、「結婚しない人の方がもっとよい」という自身の見解を述べます。しかし読者の中には、違和感を覚えた人も多くいたことでしょう。わたしたちの間でもそうだと思います。 | ||||
結婚がいつも、神さまから人を引き離すものではないことをわたしたちは良く知っています。それどころか、結婚によって神さまを知り、イエス様を受け入れた人もいます。それぞれに与えられた生き方があるのです。 | ||||
9月 10日「コリントの信徒への手紙一8:1〜6」 | ||||
そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。 (コリントの信徒への手紙一8章4節) |
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次にパウロは、「偶像に供えられた肉」を食べて良いかについて言及します。コリントには異教の神々が崇められ、その神殿には犠牲の動物がささげられていました。その肉はまず、神殿祭司が自分たちの物として取り分けていました。 | ||||
その残りが市場などに出回るのですが、一度他の神々にささげられたものは避けなければいけないとユダヤの人たちは考えていたようです。キリスト教の信徒の家に地蔵盆のお下がりが届けられたらどうするか、そういうことでしょうか。 | ||||
コリントの一部の人たちは、偶像自体に意味がないのでそのような肉は何の恐れもなく食べられると考えていました。しかしその「強い人」は、食べることのできない「弱い人」を見下してしまいます。パウロはそのことを、指摘していきます。 |