8月21日「コリントの信徒への手紙一2:6〜9」 | ||||
わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。 (コリントの信徒への手紙一2章7節) |
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パウロが語る「知恵」とは、神さまの秘められた計画のことを指します。神さまは、律法を守ることができないわたしたち人間に対し、救いの道を開かれました。それがイエス様の十字架でした。 | ||||
しかしその「知恵」は、人々には理解できないことでした。人々は目に見える恵みを欲し、目には見えない計画に気づけなかったのです。ヨハネ福音書1章の「言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」という箇所が思い起こされます。 | ||||
わたしたちは「知恵」と聞くと、「自分の力で得る知識」を思い浮かべるかもしれません。しかし「神の知恵」はわたしたちに一方的に示されます。理解できなくても、受け入れることが大切なのです。 | ||||
8月22日「コリントの信徒への手紙一2:10〜16」 | ||||
わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。 (コリントの信徒への手紙一2章12節) |
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牧師になって10数年、毎週のように説教を語り続けています。たまに「準備とか大変じゃないですか?」と聞かれることがありますが、「いえ、説教を語るのは喜びですから」と答えています。 | ||||
それは別に、いいカッコしいではありません。説教を語る中で、自分でも驚くようなことが起こるときがあります。これは霊(聖霊)が働いたとしか思えないというようなことが、しばしば起こるのです。 | ||||
神さまの霊が直接聞く人に働き、心の目を開いてくださるのでしょう。わたしたちは知恵の言葉を、自分の力で理解することはできないかもしれません。しかし神さまは霊を通して、わたしたちに語られるのです。 | ||||
8月23日「コリントの信徒への手紙一3:1〜9」 | ||||
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。 (コリントの信徒への手紙一3章6節) |
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パウロはコリントの人たちに、「あなたたちは乳飲み子だ」、「あなたたちは肉の人だ」と非難します。コリントの人たちは自分たちは成熟しており、周りの人は肉の人だと見下していました。 | ||||
しかし彼らの間には妬みや争いが絶えず、その状況を見たパウロは彼らこそ未成熟なのだと言うのです。コリントの人たちは1章10節〜でも指摘されたように、「誰々派」という考え方を持っていました。 | ||||
この考えは、わたしたちの間にもみられるのかもしれません。「派閥」だけでなく、「〇〇(牧師の名前)教」と呼ばれることもしばしばあります。「成長させてくれるのは神」、その言葉を心に留めていきましょう。 | ||||
8月24日「コリントの信徒への手紙一3:10〜17」 | ||||
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。 (コリントの信徒への手紙一3章11節) |
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パウロはコリントの人たちに、わたしが神さまの恵みによって教会の土台を据えたと告げます。さらにその土台は、イエス・キリストという土台を無視して建てることもできないと書きます。 | ||||
建物を建てるときには、基礎工事をかなりしっかりしないと丈夫な建物はできません。また土台とは全く違うサイズの建物を建てようとしても、うまくいかないでしょう。土台を大切にすることが必要なのです。 | ||||
わたしたちの身体は、神さまの神殿だと言われます。しかし自分の力だけでどれだけ着飾ろうとしても、その土台が無視されてしまえば、それは堅固な建物とはならないのです。神さまの霊を感じ、日々歩みたいものです。 | ||||
8月25日「コリントの信徒への手紙一3:18〜23」 | ||||
だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。 (コリントの信徒への手紙一3章18節) |
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「あなたは愚か者になりなさい」と言われると、わたしたちはどう感じるでしょうか。「愚か者」と日本語で言うととてもマイナスなイメージがありますが、「自分の知恵を持たない者」と解することもできます。 | ||||
自分の知恵に頼らずに、神さまの知恵にのみすべてを委ねなさい。それがパウロの言いたいことであり、「だれも人間を誇ってはなりません」という言葉にもつながっていくことです。 | ||||
「わたしは自分の力では何もできない」、それは無力なのではなく、そのことにおいて本当に神さまを信頼し、委ねることができる素晴らしいことなのです。自分を誇ってはいないでしょうか、いつも心に留めておきましょう。 | ||||
8月26日「コリントの信徒への手紙一4:1〜5」 | ||||
自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。 (コリントの信徒への手紙一4章4節) |
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パウロは、コリントの人たちと自分自身、つまり「わたしたち」は、神さまの秘められた計画をゆだねられた管理者だと書きます。支配者ではなく、管理者です。神さまは天地創造のときに、人間にすべてを「管理」させました。 | ||||
管理とは、すべてを自分の思うように用いて良いということではありません。そうではなく神さまの目に良しとされるように、すべてのものを整えていくことです。わたしたちはそのことを勘違いし、自然破壊を繰り返してきたのです。 | ||||
コリントの人たちにもパウロは、管理者になるように求めます。それは自分たちが正しい者として立ち振る舞うのではなく、裁きはすべて神さまに任せることも意味します。わたしたちも教会の「管理」を神さまに任されているのだということを、覚えておきましょう。 | ||||
8月27日「コリントの信徒への手紙一4:6〜13」 | ||||
考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。 (コリントの信徒への手紙一4章9節) |
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コリントの人たちの大きな問題は、その「高慢さ」にあったようです。コリントの教会はパウロがいない間に、大きく成長したようです。ただしこの成長とは、人が多く集まるようになったという意味です。 | ||||
ただ彼らはそれを、自分たちの「功績」や「力」だと勘違いしてしまいました。また雄弁に語るアポロと、話が長くつまらない(と言われていた)パウロとを比較して、パウロに対する中傷もなされていたようです。 | ||||
しかしパウロは使徒の苦難を列挙し、キリスト者とはどういう人であるかを伝えます。キリストのために賢い者ではなく、愚か者になるとはどういうことか。一緒に考えていきたいと思います。 | ||||
8月28日「コリントの信徒への手紙一4:14〜21」 | ||||
あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。 (コリントの信徒への手紙一4章21節) |
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パウロはここで、このような厳しい勧告をするのはあなたがたが「愛する自分の子ども」なのだからだと書きます。パウロは決してコリントの人たちをやみくもに非難しているのではありませんでした。 | ||||
彼は「養育係」として、彼らをキリストに導く使命をもっていました。ユダヤには「養育係」という人がいて、子どもをしかるべき年齢に達するまで導いていました。多くは奴隷がその役割を任されていました。 | ||||
パウロは自らを養育係と考え、「わたしに倣う者になりなさい」と呼びかけます。パウロを通して、キリストに倣うためです。わたしたちには、聖霊が養育係として与えられています。わたしたちも聖霊を通して、キリストに倣う者となりましょう。 | ||||
8月29日「コリントの信徒への手紙一5:1〜3」 | ||||
現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。 (コリントの信徒への手紙一5章1節) |
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ユダヤ人は、律法を大事にして守ってきました。レビ記18章8節には、「父の妻を犯してはならない。父を辱めることだからである」という戒めがあります。そのようなことを、「みだらな行い」だと定めていました。 | ||||
おそらく父の死後にそのようなことになったということでしょうが、それは近親相姦にあたり、律法だけではなくローマの法律でも禁止されていたようです。しかしそのような人を排除することもなく、彼らは高ぶっていたのです。 | ||||
4章には「裁くな」と書いてあったので、「除外すべきではなかったのですか」と言われても困るところですが、パウロは罪の自覚があまりにもないところにいら立ちを覚えたようです。「律法に倣う必要はない」という言葉を、誤って捉えてしまったのです。 | ||||
8月30日「コリントの信徒への手紙一5:4〜8」 | ||||
だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。 (コリントの信徒への手紙一5章8節) |
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イエス様はルカ福音書13章20〜21節で、「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」とたとえられました。このときは肯定的に、パン種を用いておられました。 | ||||
パウロは、古いパン種を取り除きなさいと命じます。古いパン種とはコリントの人たちが教会に連なる前に持っていた、生活習慣や価値基準なのかもしれません。過越祭のときにすべてのパン種(酵母)が取り除かれたように、あなたたちも新しくなりなさいと言うのです。 | ||||
わたしたちも洗礼を受けるときに、古い自分を捨て、新しく生きることを目指します。古いものにこだわっていてはいけません。教会も同じです。古いものに固執するときに、全体が腐敗してしまうこともあるかもしれないのです。 | ||||
8月31日「コリントの信徒への手紙一5:9〜13」 | ||||
外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。 (コリントの信徒への手紙一5章12節) |
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パウロはコリントの信徒に向けて、聖書には載せられていない手紙も送っていたようです。そしてその中には、誤解を生む表現もあったようです。それは、「みだらな者と交際してはならない」というものです。 | ||||
その手紙を受け取って、コリントの人たちは教会の外にいる「みだらな者」と関わらないようにしました。ファリサイ派の人たちが、「汚れた人」と決して関わらなかったのと同じことのように思えます。 | ||||
教会は外の人たちを裁くべきではない、それは神さまがなさることだというのが、パウロの主張です。イエス様がなさったように、わたしたちも教会の外にいる人たちと共に歩んでいきましょう。 |