8月11日「ローマの信徒への手紙16:7〜16」 | ||||
あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。 (ローマの信徒への手紙16章16節) |
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パウロはローマの信徒への手紙の最後に、たくさんの人たちの名前を書きます。まだローマに行ったことのないパウロが、これだけのメンバーの名前を知っているということはどういうことなのでしょう。 | ||||
もともと他の場所でパウロの教えを聞いていたのか、あるいはエフェソなど他の場所で活動している人たちの名前なのか。それはわかりませんが、女性の名前が多く登場することにも注目したいと思います。 | ||||
初代教会のときから、女性は教会の中で重要な役割を担っていたようです。現在の教会はどうでしょうか。「聖なる口づけ」は、わたしたちの文化の中では違和感があります。しかし同じくらい親密な気持ちで、働きに敬意を表しながら挨拶を交わしていきましょう。 | ||||
8月12日「ローマの信徒への手紙16:17〜20」 | ||||
あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。 (ローマの信徒への手紙16章19節) |
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最後の挨拶の途中に、突然「警告文」が入ってきます。この部分を後から挿入されたものだと考える人たちもいますが、パウロが手紙の最後に一番気を付けて欲しいことを書き記したともいえるでしょう。 | ||||
「学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々」とは、「偽教師」とも呼ばれます。彼らは教会に分裂を起こさせるように、教会の内部に入り込みます。現在でも「カルト教団」と呼ばれる人たちの中には、教会の信徒を装って活動している人もいるようです。 | ||||
パウロの他の手紙にもあるように。このような「偽教師」による分裂は各地で起こっていたようです。わたしたちの教会も、「うまい言葉」や「へつらいの言葉」には注意していきましょう。 | ||||
8月13日「ローマの信徒への手紙16:21〜23」 | ||||
この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。 (ローマの信徒への手紙16章22節) |
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ここでまたパウロは、挨拶を再開していきます。パウロとともに行動していたテモテたちの名前も出てきます。テモテは協力者と呼ばれ、新約聖書の中には彼に宛てて書かれた手紙が2つ残されています。 | ||||
ルキオやヤソン、ソシパトロがどのような人物なのかは、記録に残っていません。使徒言行録に出てくる同じ名前の人と同一人物かどうかも定かではありません。ただパウロは多くの協力者と共に、行動していたのだということです。 | ||||
一匹狼のように見えるパウロは、そうではなかったようです。しかも視力もかなり衰えていました。そこで彼は、口述筆記者を使って手紙を書いていたようです。そのテルティオという人物も、自分の挨拶を書き加えています。 | ||||
8月14日「ローマの信徒への手紙16:25〜27」 | ||||
この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。 (ローマの信徒への手紙16章27節) |
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パウロの福音理解を最も的確にあらわしているとされる「ローマの信徒への手紙」の最後に、パウロは「神への賛美」を書き記します。イエス様によって明らかにされた救いの計画に対して、パウロは感謝を伝えます。 | ||||
パウロは決して自分の力ですべてを理解し、宣教しているのではありませんでした。そのことが分かっているからこそ、彼は手紙の最後に神さまに対する賛美の言葉を綴ったのでしょう。 | ||||
わたしたちも何かをおこなうとき、神さまへの感謝と賛美を忘れないようにしたいものです。神さまがわたしたちのためにイエス様を遣わされたこと。そして救いの道を開かれたこと。そのことを信じて、今日も神さまに感謝し、神さまを賛美しましょう。 | ||||
8月15日「コリントの信徒への手紙一1:1〜3」 | ||||
わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 (コリントの信徒への手紙一1章3節) |
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今日から「コリントの信徒への手紙」を読んでいきます。コリントはローマとは違い、パウロが実際に伝道して教会共同体をつくった場所です。そのため手紙の中には、教会が抱えていた具体的な問題も書かれています。 | ||||
手紙の宛先にあるソステネという人物はコリントに住むユダヤ人たちの指導者の一人だったようですが、使徒言行録18章13〜17節に出てくる人物と同じ人かどうかは分からないそうです。 | ||||
2000年前の教会に起こっていた問題は、もしかしたらわたしたちの教会の中にも起こりうることかもしれません。この手紙を、神さまがパウロを通して語られたわたしたちに対するメッセージとして読んでいきましょう。 | ||||
8月16日「コリントの信徒への手紙一1:4〜9」 | ||||
わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。 (コリントの信徒への手紙一1章4節) |
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パウロはまず、コリントの人たちが神さまの恵みを受けたことについて感謝していると書きます。コリントは、エーゲ海とアドリア海を隔てた場所にあるギリシアの都市でした。そのため、多くの文化が混ざり合っていました。 | ||||
劇場や市場だけでなく、神秘宗教の神殿もあったと言われるコリントでは、様々な神々が信仰の対象となっていました。その中においてあなたがたは、キリストに結ばれたとパウロは書きます。 | ||||
ここまでを読むと、パウロはコリントの人たちを手放しで褒めているようにも見えます。しかし明日以降、パウロの語調は勧告へと変わっていきます。どのようなことをパウロは語っていくのか、わたしたちも心して聞いていきたいと思います。 | ||||
8月17日「コリントの信徒への手紙一1:10〜17」 | ||||
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。 (コリントの信徒への手紙一1章10節) |
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パウロはコリントの人々に勧告をします。その内容は、一致の勧めです。2000年前の初代教会から分裂をしていたところをみると、わたしたちの教会がバラバラ(?)なのも仕方ないと諦められそうです。 | ||||
人々は、「パウロ派」、「アポロ派」、「ケファ(ペトロ)派」のように、分かれていたようです。その人から洗礼を受けた、その人の教えが合っている、その人とはウマが合う、様々な理由がありそうです。 | ||||
しかしわたしたちは、「キリスト派」であるべきなのです。キリストの十字架によって生かされていることを意識しなければなりません。そうなると、「わたしはこの牧師さんがいいわぁ」という会話もなくなっていくのではないでしょうか。 | ||||
8月18日「コリントの信徒への手紙一1:18〜25」 | ||||
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 (コリントの信徒への手紙一1章18節) |
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十字架刑はローマ帝国が反乱を防ぐための残虐な死刑方法で、見せしめのためにおこなわれていました。十字架の上に長期間放置されることで、人々は恐怖を覚え、権力に逆らうことをやめるのです。 | ||||
よほどの重罪人しかつけられない十字架に、イエス様は架けられました。普通に考えると、そのような人とは関りを持ちたくないと思います。しかし神さまはそのような手段を用いて、わたしたちを救いに導くのです。 | ||||
わたしたちにとって、イエス様の十字架は大切なシンボルです。しかしその十字架によって、イエス様が血を流されたことも、忘れずにいたいと思います。神さまの愛が、キリストの十字架には込められているのです。 | ||||
8月19日「コリントの信徒への手紙一1:26〜31」 | ||||
それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 (コリントの信徒への手紙一1章29節) |
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パウロはコリントの人たちに、召されたときのことを思い出すようにと語ります。あなたがたは知恵があったわけでも、能力があったわけでも、家柄がよかったわけでもないだろうと言うのです。 | ||||
しかしそれにもかかわらず、神さまはあなたがたを選んだ、いや、そんなあなたがただからこそ、神さまか選んだのだと伝えるのです。漁師や徴税人を弟子とした、イエス様を思い起こします。 | ||||
わたしたちもまた神さまの招きによって集められ、教会に連なる者とされました。それは自分の努力や能力ではなく、神さまからの一方的な呼びかけに応じたに過ぎないのです。わたしたちが自分を誇るとき、そこには分裂が待っているのです。 | ||||
8月20日「コリントの信徒への手紙一2:1〜5」 | ||||
なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 (コリントの信徒への手紙一2章2節) |
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聖書に書かれているパウロの手紙を読むと、彼はいつもエネルギッシュで力に溢れ、何も恐れずに突っ走っていく、そのようなイメージを持ちます。しかし実際は、必ずしもそうではなかったようです。 | ||||
パウロが前回コリントに行ったときには、彼は衰弱していて恐れに取りつかれていたそうです。でもだからこそ、「パウロの言葉」ではなく「神さまの言葉」に人々は耳を傾けることができたのです。 | ||||
「わたしは弱さを誇る」と、パウロは別の箇所で語ります。十字架につけられたイエス様も、無力でした。しかしその中に、わたしたちを生かす「いのち」があるのです。弱さの中にこそ、大切なものが隠されているのです。 |