本文へスキップ


日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2024年6月21日〜30日

621ローマの信徒への手紙32731
 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
(ローマの信徒への手紙3章30節)
パウロはここではっきりと、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考える」と語ります。この言葉は自らがユダヤ人ファリサイ派として律法を順守してきたからこそ、言えるものなのでしょう。
その大転換のもととなったのが、イエス様の十字架です。旧約の時代、人々は自分の罪を償うために、良い行いを続けなければなりませんでした。しかしそれは人間には不可能であったため、神さまはわたしたちの罪を贖うためにイエス様を遣わされました。
そしてイエス様の十字架は、ユダヤ人だけでなくすべての人たちを神さまの元に導く架け橋となったのです。唯一である神さまは、だれか特定の人だけの方ではありません。信仰によって、すべての人は救われるのです。
622ローマの信徒への手紙418
 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
(ローマの信徒への手紙4章3節)
アブラハムは「信仰の父」と呼ばれ、ユダヤ人から偉大な父祖として仰がれている人物です。彼には跡継ぎがなかなかできませんでしたが、あるとき神さまは彼を外に連れ出して言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」。
そして続けて言われました。「あなたの子孫はこのようになる」と。ただ一方的に与えられた約束です。そして創世記15章6節にはこうあります。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。
アブラム(のちのアブラハム)は、ただただ信じました。神さまはその信仰をみて、彼を義、正しい者とされたのです。旧約の時代から実は、信仰による義が認められていたのです。その事実を、わたしたちも大切にしたいと思います。
623ローマの信徒への手紙4912
 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。
(ローマの信徒への手紙4章10節)
パウロは論理的に、アブラハムの義について語っていきます。このような議論の展開について行ける人と、ちょっと苦手に感じる人と入ると思います。わたしは後者です。そんなに白黒はっきりさせていかなくても、と思ってしまいます。
聖書によると、アブラハムが神さまから義と認められて(創15:6)、割礼を受けるまでに(創17:24)、29年の歳月が流れていました。つまり神さまは割礼の有無にかかわらず、「義」と認められる方だというのです。
そして義とされた証印として、割礼があったのだと説明します。しかし現在、わたしたちは割礼を受けていません。ではわたしたちには何が義とされた証印なのでしょうか。それは洗礼です。だからわたしたちは、洗礼を大切にしているのです。
624ローマの信徒への手紙41318
 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。
(ローマの信徒への手紙4章15節)
パウロはアブラハムのことを例に挙げて、人は律法によって義とされるのではないということを語ります。「律法は怒りを招くもの」という表現は、なかなか過激なものだと感じてしまいます。
YouTubeの中に、「ドラレコ動画」というものがあります。車やバイクにつけられているドライブレコーダーの動画を集めたものですが、交通違反や事故、トラブルの様子が流されます。
交通規則を守らない人をネットで裁く。本来交通規制は、みんなが安全に交通できるように定められたものです。しかしそれが、人を裁き合うものに変わっていく。律法もそのようになっていたのかもしれません。
625ローマの信徒への手紙41925
 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
(ローマの信徒への手紙4章25節)
アブラハムとサラに息子イサクが与えられたのは、アブラハム100歳、サラ90歳のときでした。常識的に考えて、子どもができるのはもう無理だと考えられていました。アブラハム自身も最初はそう思っていました。
しかし神さまは、その不可能に思えることを可能にすると約束されたのです。そしてアブラハムは、その約束を信じました。神さまの約束を疑うことなく、ただ信じた。その信仰が義とされたのです。
そしてわたしたちには、復活のイエス様が与えられています。「見えないものを信じる」ことは、とても難しいことです。しかしその神さまの約束を信じることで、わたしたちもまた義とされるのです。
626「ローマの信徒への手紙5111
 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
(ローマの信徒への手紙5章3〜4節)
信仰によって義とされたわたしたちは、神さまとの間に平和を得ます。ここで言う平和とは、戦争などの争いごとがない状態ということではなく、神さまと正しい関係にあることをいいます。平安と言ってもいいかもしれません。
その恵みによって、わたしたちは神の栄光にあずかります。そこには希望もありますが、苦難も生じます。パウロの時代の迫害まではいかなくても、信仰を持ち続けていく中に困難は生まれてしまうのです。
しかしその苦難も、最終的には希望へと変えられるのです。聖書の中の「苦難→忍耐→練達→希望」という流れの中で「練達」という言葉がしっくりこなかったのですが、新しい聖書になって「品格」という訳に変わりました。それでもやはりしっくりこないですが。
627ローマの信徒への手紙51214
 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
(ローマの信徒への手紙5章12節)
創世記3章には、アダムとエバが蛇にそそのかされて、神さまが「食べてはいけない」と命じた木の実を食べた物語が載せられています。そのときに神さまは、アダムとエバを楽園から追い出しました。
それ以来、わたしたち人間と神さまとの間には、大きな溝が生まれました。神さまとの関係が正しくない状態、これを罪と呼びます。つまり人間は生まれながらにして、罪を背負っているのです。この罪を「原罪」と呼びます。
この罪によって、本来人間の死は滅びを意味していました。死に支配されている中で生きる、それがわたしたちの姿だったのです。しかしそこにイエス様が来られ、「アダムの罪」ごと背負われたのです。
628ローマの信徒への手紙51521
 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
(ローマの信徒への手紙5章19節)
アダムの罪によって、わたしたちもまた罪を背負って生きる者となりました。そう言われると、何だか不条理な気がします。親が借金をしてそれを相続するのと、何だか似ているような気がします。
絵を書いていて失敗したときに、上から白い色を塗ってやり直すことがあります。薄い色の上だったり、少ない面積だったりしたらまだ修復可能ですが、全面真っ黒に塗られた後だったら、その作業は大変です。
イエス様の十字架は、その黒い色を真っ白に変えてくれるものなのかもしれません。紙の色は本質的には黒いままでも、白い色をかぶせることによって白にする。わたしたちも「キリストを着る」ことによって、義とされるのです。
629ローマの信徒への手紙617
 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
(ローマの信徒への手紙6章6節)
日本聖公会で用いられている洗礼式の式文には、このような一文があります。水の聖別(祈祷書279頁)のところです。「…すべての罪を赦し清めて新たに生まれさせ、キリストの死と復活のさまに等しくし、…」。
神さまは罪人であるわたしたちを救うために、イエス様を遣わされました。罪に縛られた状態のわたしたちを解放し、生きる者とするためです。イエス様の十字架にあずかり、そしてまた、イエス様の復活にもあずかるのです。
「何もせずに罪が赦されるなら、そのまま罪人のままでずっといればいいじゃないか」、そのような反論をパウロは耳にしたのかもしれません。でもそうではないと彼は言います。罪を赦されたわたしたちは、義に生きる者となるのです。
630ローマの信徒への手紙6811
 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
(ローマの信徒への手紙6章11節)
「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」、とてもうれしい言葉だと思います。わたしたちはこの地上で生を受け、日々生かされています。その生の中で、イエス様に結ばれているというのは、どれほど大きな喜びでしょう。
そしてその結びつきは、死をも超えます。イエス様が死の中からよみがえられたように、わたしたちも起き上がらせられるのです。わたしたちにとってもはや、死は全ての終わりではありません。
お葬式をするときに、この言葉はいつも心の中に響き渡ります。確かに愛する人の死は悲しいです。涙もなかなかとまりません。でも死の向こう側にある命があるのです。その希望をもって、わたしたちは歩んでいくのです。

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
 教会HPはこちら

〒630-8213
奈良市登大路町45

TEL 0742-22-3818

牧師:司祭マタイ古本靖久
副牧師:司祭エレナ古本みさ