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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2024年3月21日〜31日

321「使徒言行録1615
 パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。
(使徒言行録16章3節)
バルナバと別れて第二回宣教旅行に出発するパウロは、テモテという人物を連れて行くことにします。彼の母親はユダヤ人でしたが、父親はギリシア人でした。そのため、テモテは割礼を受けていなかったようです。
エルサレムの使徒会議の決定を知るわたしたちは、テモテに割礼を施すパウロの姿に違和感を覚えるかもしれません。「結局割礼が必要なんじゃないか」と思われても、不思議はないからです。
しかしパウロが大切にしたかったのは、ユダヤの人たちの思いです。これまで彼らが大事にしていたものを簡単に否定するのではなく、ある意味尊重するのです。日本における宣教を考えるときに、大いにヒントになる姿勢だと思います。
322使徒言行録16610
 ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。
(使徒言行録16章7節)
今日の箇所の冒頭にある「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とは、一体どういう意味なのでしょうか。その後には、イエス様の霊が行く手を防いだことも書かれています。
わたしたちも人生の中で、思う道に進めなくなることがあります。物理的な道だけではなく、生きる道も制限された経験を持っている人もいるでしょう。でもそこには、神さまの導きがあるのかもしれません。
パウロたちは幻によって、マケドニアに向かいます。これは決して「偶然」ではないのです。神さまがご計画された、「神の必然」です。そして神さまはわたしたちをも、導いておられるのです。
323使徒言行録161115
 ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
(使徒言行録16章14節)
パウロは次に、フィリピへと行きます。フィリピはマゲドニア州第一区の都市で、ローマの植民地でした。しかし「フィリピの信徒への手紙」が書かれたように、そこにも教会共同体が生まれていきました。
そこでパウロは、集まって来た女性たちに話をします。残されている手紙の内容から男尊女卑のイメージが強いパウロですが(この考えは個人的なものですが)、福音を女性たちにも分け隔てなく伝えています。
その中に、リディアという女性もいました。彼女はパウロたちを招き入れ、家に泊めさせます。それは主が、彼女の心を開いたからです。神さまの導きと招きに心を委ねるときに、神さまは新たな道を開いてくださるのです。
324使徒言行録161618
 わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。
(使徒言行録16章16節)
聖書には悪霊や汚れた霊などが出てきますが、ここに登場するのは「占いの霊」です。これはどういう霊なのでしょうか。「占いをせずにはおられない、こんなはずじゃなかったのに!」という感じでしょうか。
ただ彼女がパウロたちに対して言い続けていたことは、あながち間違いではありません。「いと高き神の僕」、「救いの道を宣べ伝えている」、この言葉自体には、何の問題もなさそうです。
問題は彼女が占いを商売にし、さらにその利益を当てにしている主人たちがいたということです。どのような形で、彼女にお金が入ったのかは書かれていません。しかしパウロは、福音宣教を使ってお金を稼ぐ彼女たちをやめさせました。
325使徒言行録161924
 この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。
(使徒言行録16章24節)
パウロたちは、フィリピで活動していました。そこはローマの植民地でした。パウロたちはフィリピの人たちから見たら「よそ者」です。その彼らが、占いの霊に取りつかれた女性を追い払ったのです。
彼らにとってパウロがその女性を追い払ったことは、せっかくのお金儲けのチャンスが逃げていくことでした。パウロとシラスは、ただただ邪魔な存在になってしまったのです。そこで彼らは、パウロたちを高官の前に引きだします。
パウロとシラスは、牢に入れられました。そのとき、他の群衆はどう思っていたのでしょうか。教会の暦では、今日から聖週です。「十字架につけろ」とイエス様の前で叫び続けた群衆の姿と、重なってみえます。
326使徒言行録162534
 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
(使徒言行録16章31節)
パウロとシラスは牢の中で、賛美の歌を歌い、神さまに祈っていました。彼らは投獄されるときに、何度も鞭で打たれていました。にもかかわらず、神さまに賛美をささげていたわけです。
わたしたちは苦難に陥ったときに、賛美する心を忘れ、祈ることを怠ってしまうことが多くあります。でも、それではいけないのです。苦しく、困難な中にあるときにこそ、神さまを賛美し、祈ることが必要なのです。
突然大地震が起き、パウロたちは自由になりました。しかし彼らは、逃げ出そうとはしませんでした。神さまの導きを、深く感じたのでしょう。そして神さまの恵みが、看守とその家族一同にまで注がれます。彼らは神さまを信じる者となるのです。
327使徒言行録163540
 それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」
(使徒言行録16章36節)
パウロとシラスは看守の家で食事をし、看守とその家族に洗礼を授けますが、そのあとまた牢に戻ったようです。確かにそのまま彼らが牢から出てしまうと、看守に責任が負わされることになるでしょう。
そして夜が明けると、パウロたちを釈放せよとの命令が下されます。しかしパウロはここで、驚くべきことを告白します。パウロとシラスはローマ市民であったという事実を、ここで告げるのです。
ローマの市民権を持つ人は、ローマの植民地において逮捕や投獄から守られていたようです。高官はパウロたちがローマ市民であることを知らなかったとはいえ、公衆の面前で鞭打ってしまいました。しかしなぜ、パウロはもっと早く言わなかったのでしょうか。
328使徒言行録1719
 しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。
(使徒言行録17章5節)
フィリピを出たパウロたちは、続いてテサロニケに入ります。このテサロニケにも、パウロは手紙を書いています。聖書の後ろにある地図で、その位置を確かめてみてもいいかもしれません。
パウロは安息日に、ユダヤ人の会堂で聖書を引用して論じ合っていました。ユダヤ人の中にはイエス様を信じる人も、そうでない人もいました。さらに信じる人の中には、ギリシア人が多くいました。
それを見て、ユダヤ人の心に妬みが生まれます。「妬み」は聖書によく登場する、あまり好ましくない感情です。他人の物や心を妬むことは、自分が神さまから愛されていないと思ってしまうことと繋がっているようにも思います。
329使徒言行録171015
 ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた。
(使徒言行録17章13節)
わたしたちの周りにも、執拗に他人を攻撃する人がいます。現代はSNSなどが発達して個人の言いたいことがすぐに発信できるようになった分、そのような傾向は強くなっているのかもしれません。
テサロニケとベレアとは、決して近くはありません。しかしテサロニケのユダヤ人はベレアまでやって来て、群衆を扇動し騒がせました。彼らはどうしても、パウロの言葉を受け入れることはできませんでした。
反面、ベレアのユダヤ人は、み言葉を受け入れた後にそのとおりかどうか聖書で調べていたそうです。わたしたちも自分とは違う意見を耳にしたときに、批判し攻撃する前に、聖書に立ち帰ることが大事なのです。
330使徒言行録171621
 パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。
(使徒言行録17章16節)
ついにパウロは、アテネまでやってきました。ギリシアにあるアテネは、世界最古の都市の一つで約3400年の歴史があるそうです。芸術や学問、哲学もさかんで、いわゆる「知識人」が多くいたようです。
わたしたちがイエス様の福音を伝えるときに、「頭から」入る人と「心から」入る人とがいます。「頭から」入る人の場合、論理的・科学的に証明を求められることもあります。しかしイエス様の復活など、なかなか難しいものです。
さらにギリシアの人たちは、信じる・信じない以前に、「新しい知識」だけを求めてパウロの話を聞いていたようです。このような聞かれ方は、話す方からするとなかなかしんどいものです。
331使徒言行録172231
 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
(使徒言行録17章27節)
日本には、「八百万の神々」がいると信じられています。またギリシア神話をみると、アテネの人たちもたくさんの神々を信仰していたようです。「知られざる神に」という祭壇は、その存在に気付かず、拝むのを忘れてしまっている神さまのための祭壇のようです。
パウロはその人々の信仰を真っ向から否定するのではなく、「知られざる神に」という祭壇を取っ掛かりに話を始めました。そして彼は、自分が伝えたい内容を語り始めるのです。
このパウロの姿勢に、わたしたちも学ぶところは多くあると思います。日本で宣教をするときに、わたしたちの目には「間違っている」と思えることも多くあるかもしれません。しかしそれを簡単に否定せずに、福音を伝えていく。大切にしたいことです。

バナースペース

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