3月 1日「使徒言行録12:1〜5」 | ||||
こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。 (使徒言行録12章5節) |
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ヘロデ王は迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺しました。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは漁師だったときにイエス様に声を掛けられ、ずっと従ってきた最初の弟子たちです。 | ||||
聖書には「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください(マルコ10:37)」と言ったり、サマリア人に対して「彼らを焼き滅ぼしましょうか(ルカ9:54)」と言ったりするエピソードが載せられています。 | ||||
しかし彼らはイエス様の変容やゲツセマネの園での祈りの際も、ペトロと共に三人だけ連れられていきました。そのため共同体の中では、重要人物となったことでしょう。その一人であるヤコブが殺され、さらにペトロが捕らえられてしまうのです。 | ||||
3月 2日「使徒言行録12:6〜11」 | ||||
ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」 (使徒言行録12章11節) |
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ペトロはヘロデから引き出される前夜、兵士たちの間で眠っていました。明日処刑されるかもしれないというのに、あまり緊張が感じられません。よほど疲れていたのか、それともすべてを神さまのみ心にお委ねしていたのでしょうか。 | ||||
教会の人たちは、祈り続けていました。ヤコブという指導者が殺害され、続いてペトロが捕らえられた今、武力でペトロを取り戻そうと考えても無理はないところです。しかし彼らは祈りによって、神さまに救いを求めたのです。 | ||||
主の天使によって、ペトロは助け出されました。ただここで思い違いをしてはいけません。ペトロは重要だから助かったのだとか、ヤコブはそれに劣るから殺害されたのだとか、そういうことではないのです。わたしたちにはわからない、神さまのご計画があるのです。 | ||||
3月 3日「使徒言行録12:12〜19」 | ||||
ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。 (使徒言行録12章14節) |
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牢に入れられたペトロのために、教会は祈り続けていました。人々はマルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に集まります。いわゆる「家の教会」です。ここに教会の原点があります。 | ||||
ペトロはそこに行き門の戸を叩くと、ロデという女性が出てきました。彼女は声で、すぐにそれがペトロだということがわかったようです。ただ彼女はおっちょこちょいだったのでしょう。喜びのあまり、肝心の門を開けることを忘れていました。 | ||||
そして驚いたのは教会の人たちだけではありません。二人の兵士は、鎖につながれ自分たちの間で眠っていたペトロがいなくなったことを知り、恐怖を感じたことでしょう。彼らは神さまのみ業の前に、ただ無力でした。 | ||||
3月 4日「使徒言行録12:20〜25」 | ||||
するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。 (使徒言行録12章23節) |
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ティルスとシドンは、エルサレムからかなり北に離れた場所です。ガリラヤ湖よりさらに北です。ヘロデ王はその地域の人たちに腹を立てていました。原因は書かれていませんが、住民は何とか機嫌を直してもらおうと、おべっかを使います。 | ||||
「素晴らしい!神さまの声だ!」、その住民の声にヘロデは酔いしれたのかもしれません。ヘロデは神さまに栄光を帰さなかったという理由で、主の天使に打たれてしまいます。つまり、死んでしまったのです。 | ||||
「わたしがしたことではなく、神さまがなさったのです」。時折、このように語る方に出会うことがあります。素晴らしい信仰だと思います。わたしたちも心から、神さまのみ業に感謝していきたいと思います。 | ||||
3月 5日「使徒言行録13:1〜3」 | ||||
彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」 (使徒言行録13章2節) |
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ここから聖書は、宣教旅行の様子を伝えていきます。聖書にはいくつかの地図が載せられているものがあります。その「パウロの第一次宣教旅行」のスタートに当たるのが、今日の箇所の記述です。 | ||||
その地図を見ると、アンティオケアは地中海の東、シリアの西部にあることがわかりますエルサレムやガリラヤから遠く離れたこの地に、初代教会の拠点がありました。異邦人の地に、彼らは根を張っていくのです。 | ||||
彼らは出発する前に、礼拝と断食をおこないます。そして「自分たちの思い」ではなく、「神さまのみ心」を願い求めます。その結果、バルナバとサウロ(のちのパウロ)が選ばれます。シメオンとルキオとマナエンは二人の上に手を置き、送り出していくのです。 | ||||
3月 6日「使徒言行録13:4〜12」 | ||||
この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。 (使徒言行録13章7節) |
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今日の箇所の最初に、「聖霊によって送り出された」と書かれています。彼らは自分の意思や力で、宣教旅行を開始したのではありません。「神さまに押し出されて」、彼らは出発します。彼らの舟には、いつも神さまが共にいたのでしょう。 | ||||
二人に同行したヨハネはゼベダイの子ではなく、12章12節に出てくる「マルコと呼ばれていたヨハネ」です。マルコによる福音書の著者とされてきた人物です。彼らはキプロス島で、総督に出会います。しかしそれを魔術師エリマが妨げようとします。 | ||||
ここからサウロは、ユダヤ名の「サウロ」ではなくギリシア名の「パウロ」と呼ばれていきます。これから異邦人伝道が本格的になるという意味もあるのかもしれません。彼はエリマに毅然と立ち向かい、その結果、総督は信仰に入っていきます。 | ||||
3月 7日「使徒言行録13:13〜25」 | ||||
パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。 (使徒言行録13章13節) |
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13節に、ヨハネ(マルコ)が一行と別れてエルサレムに帰ってしまったという出来事が書かれています。その理由には何も触れず、ただ事実だけが簡単に述べられています。一体彼に何があったのでしょうか。 | ||||
実はこの出来事は、のちにパウロとバルナバとの間に口論を引き起こし、別行動をもたらすきっかけとなります。しかしこのとき、パウロはヨハネに対して何か言ったとは書かれていません。「去る者は去るがいい」という思いなのでしょうか。 | ||||
パウロはコロサイやガラテヤという聖書でも聞いたことのある場所に近い、ピシディア州のアンティオキアで語り始めます。そこにはユダヤ人もいました。彼らはディアスポラとして、共同体を形成していました。 | ||||
3月 8日「使徒言行録13:26〜35」 | ||||
兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。 (使徒言行録13章26節) |
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パウロは人々に語り続けます。アブラハムの子孫とはユダヤ人のことでしょう。そして「あなたがたの中にいて神を畏れる人たち」とは異邦人のことです。彼らは一緒になって、パウロの言葉に耳を傾けていました。 | ||||
パウロが語ったのは、「イエス様の十字架と復活」です。すべての説教は、ここに行きつくといっても過言ではありません。ただここでは、イエス様は何のために十字架につけられたのか、どうして復活したのかまでは詳しく語られていません。 | ||||
聖書(旧約聖書)の言葉を引用しながら語ることによって、神さまの救いの計画の継続性をパウロは伝えます。ペトロやステファノが語った説教もそうでした。キリスト教の礼拝で旧約聖書が読まれるのには、大きな意味があるのです。 | ||||
3月 9日「使徒言行録13:36〜43」 | ||||
集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。 (使徒言行録13章43節) |
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パウロは説教を通じて、二つのことを人々に告げます。一つは、イエス様によって罪の赦しが告げ知らされたということ。そしてもう一つは信じる者は皆、イエス様によって義とされるということです。 | ||||
特に二つ目の「信じることによって義とされる」ということは、「信仰義認」という言葉でわたしたちも聞いたことがあると思います。それまでの考え方は、「行為義認」(良いおこないによって義とされる)というものでした。 | ||||
その福音を聞いた人々は、パウロとバルナバに翌週も来てほしいと頼みます。さらに彼らについていき、語り合います。その中にはユダヤ人だけではなく、「神をあがめる改宗者」も多くいました。 | ||||
3月 10日「使徒言行録13:44〜52」 | ||||
しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。 (使徒言行録13章45節) |
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パウロとバルナバが告げる主の福音を聞こうと、人々は集まってきました。しかしその中で、ユダヤ人がひどくねたみます。パウロたちの言葉に反論するというよりも、自分たち以外の人にも救いの扉が開かれたということに対して、ねたむのです。 | ||||
そこでパウロは語ります。それは神の言葉は、まずユダヤの人に語られるはずだったということです。そのあとで全世界に広められるはずだったのに、ユダヤ人が拒んでしまったということを指摘するのです。 | ||||
結果的に異邦人はパウロの言葉を聞いて喜びますが、ユダヤ人はパウロとバルナバを迫害して追い出します。同じ言葉を聞いたにもかかわらずです。教会でも、気を付けないと同じようなことが起こり得ます。 |