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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2023年12月1日〜10日

12月 1出エジプト記331723
 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
(出エジプト記33章20節)
モーセは、神さまが共に歩んでくださるしるしを示して欲しいと願います。しかし神さまは不思議なことを言います。「しるしは見せよう。だがわたしを見ると死んでしまうため、しるしが通りすぎるまで、わたしはあなたを手で覆い、見えなくする」。
この言葉通りであれば、結局しるしを見ることはできないということになります。11節では「顔と顔を合わせてモーセに語られた」とありましたが、実際には姿は見せていなかったのでしょうか。
ただキリスト教では、「見ないのに信じる者は幸いである」という言葉がイエス様の口から語られます。しるしを見たからではなく、心で感じ、信じることのできる信仰を、わたしたちも求めていきたいものです。
12月 2出エジプト記3417
 モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。
(出エジプト記34章4節)
31章18節で神さまは、モーセに2枚の石の板(掟の板)を授けました。しかしその板は、金の子牛事件を見て怒ったモーセが投げつけ、打ち砕いてしまいました。神さまはもう一度、それを作ってあげようとされます。
前回はモーセが石の板を用意したという記述はありませんでしたが、今回はあらかじめ切り出して持ってきなさいと命じられます。前回のサイズも知っていたので、準備するのは難しくはなかったでしょう。
そして6〜7節の言葉を宣言しながら、神さまはモーセの前を通りすぎていかれました。「神さまは確かにそばにおられる」ということを、モーセはこのことによって知ったのでしょう。
12月 3出エジプト記34816
 わたしが、今日命じることを守りなさい。見よ、わたしはあなたの前から、アモリ人、カナン人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。
(出エジプト記34章11節)
神さまは、モーセと契約を結びます。神さまは「わたしはあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。それは全地のいかなる民にもいまだかつてなされたことのない業である」と告げます。
さらに「あなたと共にいるこの民は皆、主の業を見るであろう。わたしがあなたと共にあって行うことは恐るべきものである」との言葉をモーセに語り、その直後に11節の言葉、「わたしはあなたの前から…を追い出す」という言葉を語られます。
この言葉を文字通りに捉えると、非常に危険です。実際にこの言葉のせいで、多くの争いが引き起こされてきました。この「古い契約(旧約)」から「新しい契約(新約)」へと、わたしたちは目を向けなければいけないのです。
12月 4出エジプト記341720
 初めに胎を開くものはすべて、わたしのものである。あなたの家畜である牛や羊の初子が雄であるならば、すべて別にしなければならない。
(出エジプト記34章19節)
教会の暦では、昨日降臨節第1主日を迎え、イエス様のご降誕を待ちわびる時期となりました。旧約の様々な決まりを見るたびに、イエス様がそれらを新しく更新してくださって本当によかったと思えます。
最初に神さまは、「鋳物の神々を自分のために造るな」と命じられます。これは異教との区別をはっきりさせるために、命じられたことです。以前レジン液で十字架を作ったことがありますが、これはセーフでしょうか。
また除酵祭についても書かれます。「主の過越」を記念しておこなわれるこの祭ですが、エジプトから急いで逃げるときにパンを膨らませる余裕がなかったことに由来します。聖餐式のウェハースがパサパサなのも、パン種を入れないからです。
12月 5出エジプト記342128
 モーセは主と共に四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した。
(出エジプト記34章28節)
安息日や七週祭、そして年に三回、男子はみな神さまの前に出るということは、今でもユダヤ教の中で大切にされていることです。ただしイエス様の時代には、すでに年三回ではなく一回でもよいとされていましたが。
神さまはモーセに、それらを含むたくさんの掟を示しました。その期間は、40日40夜にもおよびました。40という数字は、聖書によく登場します。イスラエルの民が荒れ野をさまよったのも40年、イエス様が荒れ野で誘惑を受けたのも40日40夜です。
その間モーセは、パンも食べず水も飲まなかったそうです。これは飢えと戦ったということではなく、その期間は神さまによって養われたということです。そしてモーセは、自ら石の板に10の戒めを書きました。前回は神さまが書かれたのですが。
12月 6出エジプト記342935
 イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた。
(出エジプト記34章35節)
キリスト教美術を見ると、イエス様や聖人と呼ばれている人の頭から、光が放たれていることがよくあります。(いわゆる仏教の「後光」のようなものです)。モーセの顔からも、光が放たれていました。
周りの人たちは、驚いたことでしょう。しかし神さまと40日40夜語り合っていたモーセです。それくらいのことはあっても不思議ではありません。ただこの光は、あまりにまぶしすぎたようです。
そこでモーセは、普段は顔に覆いをするようにします。神さまと語るときは覆いを外しますが、人々の前では覆いをしたままにしておいたのです。この「顔の覆い」とは、一体何を暗示しているのでしょうか。
12月 7出エジプト記3513
 安息日には、あなたたちの住まいのどこででも火をたいてはならない。
(出エジプト記35章3節)
ここからモーセは、十戒や掟をイスラエルの全会衆に伝えていきます。最初にモーセが伝えたのは、「安息日」の掟でした。モーセは言います。「その日に仕事をする者はすべて死ななければならない」と。
神さまが天地創造のときに七日目に安息されたことを覚えるために、安息日は作られました。その日には奴隷も外国人も寄留者も家畜も、すべての労働から解き放たれる感謝の日だったはずです。
しかしそれはすでに、「禁止」の掟へと変わってしまっています。火をたくことすら禁止された彼らにとって、安息日は喜びではなく苦痛の日になったのかもしれません。本当は神さまに感謝する特別な日なのですが。
12月 8出エジプト記35419
 あなたたちの持ち物のうちから、主のもとに献納物を持って来なさい。すべて進んで心からささげようとする者は、それを主への献納物として携えなさい。
(出エジプト記35章5節)
モーセは25章で神さまから語られた言葉を、イスラエルの全会衆に伝えて行きます。わたしは50歳を過ぎた頃から、記憶力の低下に驚かされています。昔はすぐに記憶できたのですが、今は全くです。
モーセの記憶力は、すごいものです。ただイスラエルの人たちは様々な掟を暗記していたので、もともと記憶力に長けた民族なのかもしれません。モーセはここで、献納物を携えてくるように、民に伝えます。
教会共同体は本来このように、すべての人のささげ物で成り立っているものです。ささげる人と受け取る人がいるのではなく、みんなが出し合い、それを分かち合うのです。イスラエルの人たちも、「自分には何ができるのだろうか」と考えていたかもしれません。
12月 9出エジプト記352029
 心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た。
(出エジプト記35章21節)
「心を動かされた人」、「魂を突き動かされた人」という言葉が、新しい聖書には書かれています。モーセが伝えた神さまの言葉によって、それぞれの人が突き動かされたということです。
ここに教会の原点があるような気がします。牧師の説教や様々な働きの中で、心動かされ、魂を突き動かされて物事をなすとき、そこには神さまに思いが溢れるのではないでしょうか。
「自ら進んで」、「自発的に」、与えられたことを喜びのうちにおこなう。そのような教会になればと思います。「わたしの栄光ではなく神さまの栄光が御前に置かれます様に」と祈るばかりです。
12月 10出エジプト記353035
 知恵の心を満たして、すべての工芸に従事させ、彫刻師、意匠を考案する者、更に、青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸を使ってつづれ織や縁取りをする者など、あらゆる種類の工芸に従事する者とし、意匠を考案する者とされた。
(出エジプト記35章35節)
神さまは工芸をおこなうために、二人の人を指名します。手先の器用な人が立候補するのではなく、神さまが一方的に指名して、その人を神の霊で満たすのです。いわゆる「召命」といってよいでしょう。
また彼らの心には、人を教える力も授けられています。神さまはイスラエルの民と契約を結ばれました。つまりモーセの代で、すべてが終わるわけではないのです。あらゆることに対して、後継者も必要となります。
その人たちの心を知恵で満たし、さらに後継者を育てていく。その中で、様々な工芸品が作られていきます。しかし突然指名された二人は、ビックリしたのではないでしょうか。きっと恐れもあったと思います。

バナースペース

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