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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2023年11月11日〜20日

11月 11出エジプト記292630
 あなたは、アロンとその子らの任職のための雄羊の献げ物のうちから、奉納物の胸の肉と礼物の右後ろ肢とを聖別しなさい。
(出エジプト記29章27節)
奉納物として神さまの前に差し出されたもののうち、一部は祭司たちの取り分としてよかったようです。祭司の家系には土地が与えられなかったので、このようなものが日々の生活の糧となっていったのでしょう。
ただサムエル記上2章12節以降には、祭司エリの息子たちが、ささげられたいけにえを強引に奪い取る様子が書かれています。「供え物」を自分勝手に受け取ろうとする姿は、神さまの怒りを買いました。
またアロンに与えられた祭服は、その子孫が任職されたときには引き継がれていくようになります。先祖代々使われていった物を、継続して使っていく。とても思いのこもったものになったでしょう。
11月 12出エジプト記293134
 彼らは、自分たちの任職と聖別の儀式に際して、罪の贖いとして用いられた献げ物を食べる。それは聖なるものであるから、一般の人は食べてはならない。
(出エジプト記29章33節)
聖公会の聖餐式では、陪餐の際に余った聖別されたウェハースは、司祭がその場ですべて食べてしまいます。大きな礼拝の際にはかなり多めにウェハースを用意するため、すべてを食べるのも一苦労です。
それと今日の箇所とに関連があるかはわかりませんが、「聖なるもの」は祭司職にあずかる人だけが食していたようです。煮る場所も「聖なる場所で」と決められており、また他の人にも食べさせることも禁止されています。
翌日に残すのもダメ。残ったらお腹を空かせた人にあげたくなるところですが、それもダメだということです。何だか食べ物を粗末にしているように思ってしまうのは、わたしだけでしょうか。
11月 13出エジプト記293537
 七日の間、祭壇のために罪の贖いの儀式を行って、聖別すれば、祭壇は神聖なものとなる。祭壇に触れるものはすべて、聖なるものとなる。
(出エジプト記29章37節)
今年は12月24日が日曜日になります。そのため朝から降臨節第4主日の礼拝、昼から降誕日の祝会、夕方に二回イブ礼拝をして、深夜礼拝をおこないます。25日月曜日にも、朝から降誕日の聖餐式をおこないます。
「うわ〜、大変!」と思うかもしれません。でも考えてみてください。アロンたちの任職式や祭壇のための贖いは、七日間続けられました。一日や二日の礼拝で、悲鳴をあげている場合ではないのです。(というより、そもそも礼拝は喜びです)
七日間贖いをされた祭壇は聖別され、最も聖なるものとなります。そのためそれに触れたものも、すべて聖なるものとなりました。そのため罪を犯した人が、その罪から逃れるために祭壇に触れたという物語も旧約聖書の中には登場します。
11月 14出エジプト記293846
 彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。
(出エジプト記29章46節)
一日に二匹の小羊を祭壇の上にささげるように、神さまは命じられます。年間700匹以上です。ノアの箱舟のときにも「いけにえ用の動物」が一緒に乗せられていましたが、そのあたりは割り切らないと仕方がないのでしょうか。
新共同訳聖書で「臨在の幕屋の入り口」と訳されていた場所は、新しい聖書では「会見の幕屋の入り口」となりました。神さまは、「わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける」と約束されます。
神さまが来てくださる場所を用意する。まるで神社の鐘を鳴らすところのようなイメージです。しかしイエス様が遣わされたことによって、そのような場所は必要なくなったのです。
11月 15出エジプト記30110
 あなたたちはその上で規定に反した香や焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、ぶどう酒の献げ物などをささげてはならない。
(出エジプト記30章9節)
一辺が1アンマ(約45cm)の正方形で、高さが2アンマ(約90cm)の祭壇を造るように、神さまは命じられます。その祭壇の上面と側面と角とは純金で覆われ、周囲には金の縁飾りが作られます。
その祭壇で、一日二回香をたくように命じられます。仏教の線香もそうですが、そのような香りを届けるということに、大きな意味があったようです。「日々のおつとめ」が求められていたということです。
さらに年に一度、アロンは祭壇の角のために贖いをしなければならないそうです。このあたりの規定をみると、随分わたしたちのキリスト教とは違っているなあという印象を受けます。朝夕の礼拝は聖公会でもありますが。
11月 16出エジプト記301116
 あなたがイスラエルの人々の人口を調査して、彼らを登録させるとき、登録に際して、各自は命の代償を主に支払わねばならない。登録することによって彼らに災いがふりかからぬためである。
(出エジプト記30章12節)
古代イスラエルにおいて、人口調査は災いをもたらすことだったようです。人口を調べるということは、兵士の数を調べることと同じ意味です。それはすなわち、神さまの力を全面的に信頼していないことにもつながるのです。
この命の代償(贖い金)は、1人につき半シェケルです。イスラエルの人たちはこのお金を支払うことにより、神さまからの災いを逃れることになります。「賠償金」のようなものです。
そしてこの金額は、貧しい人も富める人もみな等しく、変わらないというところに大きな特徴があります。これは、神さまの前にはみな平等であることを示しているのです。
11月 17出エジプト記301721
 洗い清めるために、青銅の洗盤とその台を作り、臨在の幕屋と祭壇の間に置き、水を入れなさい。
(出エジプト記30章18節)
カトリック教会に行くと、入り口付近に聖水の入った聖水盤が置かれています。信徒の方々は礼拝堂に入るとき、手を聖水に浸して十字をきる習慣があるそうです。神社の手水舎(ちょうずや)も同じような感じでしょうか。
手足を洗い、身を清めて神さまの前に立つ。ユダヤ人はこれ以外にも、「清め」をとても重要視してきました。食事の前に念入りに手を洗うこともそうです。けが人を見かけても血に触れないために道の向こうを歩くこともそうです。
ただここまで畏れなければならない神さまというのは、いかがなものでしょうか。礼拝の中で聖書朗読が当たったとき、間違えたら裁きを受けることになったとしたら、命がいくつあっても足りません。
11月 18出エジプト記302233
 あなたはこれらを材料にして聖なる聖別の油を作る。すなわち、香料師の混ぜ合わせ方に従って聖なる聖別の油を作る。
(出エジプト記30章25節)
1シェケルは約11.4g、1ヒンは約3.8リットルです。聖書にはそれぞれの材料とその分量が載せられていますので、つい作ってみたくなるでしょう。でも気をつけてください。これと同様に調合する者は、民から断たれてしまいます。
油は、祝福や聖別のときに用いられます。イスラエルの王や祭司など、また祭壇や祭具などにも注がれます。「キリスト」という言葉も、「油注がれた者」をあらわすメシアという語のギリシア語訳です。
現在でも聖公会の祈祷書には、病者訪問の式の中に「塗油の式」という式文があります。そのときにはオリーブ油を用います。またイエス様はベタニアのマリアから、香油を注がれました。油には、不思議な力があるようです。
11月 19出エジプト記303438
 その一部を細かく砕いて粉末にし、粉末の一部を、臨在の幕屋の中の掟の箱の前に置く。わたしはそこであなたに会う。これはあなたたちにとって神聖なものである。
(出エジプト記30章36節)
続いて香です。香についても作り方が定められ、それと同じものを自分のために作ってはならないと警告されるところは油と同様です。香は気分を高揚させる作用があります。トランス状態にもなったのかもしれません。
現在の教会でも、香がたかれることがあります。海外の教会で、大きな香炉が上からぶら下げられ、それが揺れるたびに「ブワッ」と煙が出ている場面を見たことがあります。何とダイナミックなのだと驚いた記憶があります。
中世の教会では、「匂い消し」も大きな役目だったようです。毎日お風呂に入る習慣もなく、会衆の匂いを緩和するために振られていたそうです。現在の教会では「清める」ことが目的ですが。
11月 20出エジプト記31111
 わたしはダン族のアヒサマクの子オホリアブを、彼の助手にする。わたしは、心に知恵あるすべての者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものをすべて作らせる。
(出エジプト記31章6節)
神さまはこれまで命じてきたものを、ベツァルエルに作らせることにします。またオホリアブを助手とし、さらに心に知恵のあるすべての者に知恵を授けて、すべてのものを作らせます。
知恵は神さまが与えられるものではあるのですが、命じられたとおりに作らなかったら大変なことになることが予想できます。何で自分が選ばれてしまったのだろうと、考えはしなかったでしょうか。
とりあえずここまでで、様々な製作物の指示は終わります。モーセとヨシュアは、これをすべて記憶できたのでしょうか。後で彼らは神さまから石の板を受け取りますが、そこにぎっしりと文字が書き込まれていたのでしょうか。

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