11月 1日「出エジプト記27:1〜8」 | ||||
灰を取る壺、十能、鉢、肉刺し、火皿などの祭具はすべて青銅で作る。 (出エジプト記27章3節) |
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奈良基督教会にも「祭壇」があります。現在の聖餐式では、チャンセルの真ん中あたりにある「聖卓」で感謝聖別などの準備をしていますが、文語祈祷書が用いられていた頃は奥にある「祭壇」を使っていました。 | ||||
といいましても、教会には灰を取る壷や十能、鉢、肉刺し、火皿などはありません。なぜなら元々祭壇は「神さまに犠牲の動物をささげるための場所」でしたが、イエス様の十字架によるただ一度の贖いによって、動物のいけにえは必要なくなったからです。 | ||||
しかし祭壇そのものが「用なし」になったわけではありません。聖餐式をおこなうたびに、わたしたちのために血を流された方がいるということ。そしてその血の贖いによって、わたしたちは生かされているということを思い起こすことが大切なのです。 | ||||
11月 2日「出エジプト記27:9〜19」 | ||||
また、幕屋で祭儀に用いる祭具、幕屋や庭の杭などすべては青銅で作る。 (出エジプト記27章19節) |
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神さまは、幕屋を囲む庭についても指示を出します。新共同訳聖書では「〜で張る」とか「〜で作る」と書かれていた部分が、新しい聖書では「でなければならない」と変わっています。命令の意味合いが強くなったような気がします。 | ||||
聖書を読んでいくと、使用する材料やサイズ、量に至るまで細かく決められています。それはなぜでしょうか。神さまはご自分の力を知らしめるために、人々に対して大変なことを命じているのでしょうか。 | ||||
神さまが細かく指示を出す理由の一つに、「人々が自分の言いつけを守るかどうか確かめたい」という思いがあったようです。人々は本当に自分を必要としているのか、そのことを神さまはとても気にされていたのかもしれません。 | ||||
11月 3日「出エジプト記27:20〜21」 | ||||
常夜灯は臨在の幕屋にある掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に置き、アロンとその子らが、主の御前に、夕暮れから夜明けまで守る。これはイスラエルの人々にとって、代々にわたって守るべき不変の定めである。 (出エジプト記27章21節) |
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カトリックや正教会、また一部の聖公会の教会には、「タバナクル」というものがあります。これは聖別されたパンを病者訪問などのために保存する入れ物のことです。また25章10〜22節にも出てきた掟の箱(契約の箱)も「タバナクル」と呼びます。 | ||||
神さまは掟の箱の手前に常夜灯を置き、夕暮れから夜明けまで守るように命じます。「神の臨在」を周囲に知らしめることが目的なのでしょう。 | ||||
カトリック教会や聖公会の教会でも「タバナクル」に聖品(聖別されたパン)が保存されているときには、赤いランプを点灯させて示すところがあります。「神の臨在」を示す「常夜灯」の意味合いもあるのでしょうか。 | ||||
11月 4日「出エジプト記28:1〜5」 | ||||
あなたは、わたしが知恵の霊を与えたすべての知恵ある者たちに説明して、わたしの祭司として聖別されたアロンのために祭服を作らせなさい。 (出エジプト記28章3節) |
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わたしが聖公会の礼拝に初めて参加したときに、驚いたことがあります。それは前に立っている人たちがみんな衣装を着ていたことです。昔通っていた教会では、牧師がガウンを羽織る程度でしたが。 | ||||
さらに驚いたのは、教区主教も列席した礼拝でのことです。「何か頭にかぶってる!」「手に何か持ってるぞ!」、礼拝どころではありませんでした。まさかこうして、自分も同じように祭服(式服)を着ることになるとは、思ってもいませんでした。 | ||||
このとき神さまは、祭服を作る役を「知恵ある者たち」に託します。祭司アロンのための祭服を作るために、神さまが与えられた知恵を存分に生かしなさいということです。つまり祭司が着る祭服には、神さまの思いがたくさん詰まっているのです。 | ||||
11月 5日「出エジプト記28:6〜14」 | ||||
印章に石の細工人が彫るように、イスラエルの子らの名をその二個の石に彫りつけ、その石を金で縁取りする。 (出エジプト記28章11節) |
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まず神さまは、エフォドの作り方について説明します。エフォドとは前掛けのようなもので、前面には12個の石が取り付けられていました。さらにその石には、イスラエル12部族の名前が彫られていたそうです。 | ||||
このエフォドは、何に用いられていたのでしょう。祭司があらゆる祭儀をおこなうときに、イスラエルの民の思いも背負っていることを思い起こすためでしょうか。あるいは占いに用いたのでしょうか。 | ||||
たとえばどこかで争いが起こり、どの部族を派遣するか迷ったときに、祭司がエフォドにつけられた石を指さしながら、「ど・れ・に・し・よ・う・か・な・・・」と選んでいたりして。これは妻のアイデアですが、さすがに…という感じです。 | ||||
11月 6日「出エジプト記28:15〜30」 | ||||
裁きの胸当てにはウリムとトンミムを入れる。それらは、アロンが主の御前に出るときに、その胸に帯びる。アロンはこうして、イスラエルの人々の裁きを、主の御前に常に胸に帯びるのである。 (出エジプト記28章30節) |
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エフォドの次は、裁きの胸当てです。エフォドは前掛けのようなものだと説明しました。胸当ても体の前方に来るものです。エフォドと裁きの胸当ては結び合わされ、セットになっていたようです。 | ||||
12個のイスラエル部族の名が彫られた宝石が取り付けられるというのも、非常によく似ています。ただ一つ、大きな違いは、裁きの胸当ての中にはウリムとトンミムが入れられていたことです。 | ||||
ウリムとトンミムは重要な決定をする際、神さまの意思を確認するために用いるものです。「占い」に非常に近いとも言えます。なお裁きの胸当てにイスラエル12部族の名が刻まれた理由は、「イスラエルの人々の裁きを主の御前に常に胸に帯びる」ためだそうです。 | ||||
11月 7日「出エジプト記28:31〜39」 | ||||
アロンが聖所で務めをするとき、この上着を着ける。それは彼が中に入って、主の御前に出るときにも、立ち去るときにも、鈴の音が聞こえるようにして、死を招くことがないためである。 (出エジプト記28章35節) |
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今日の箇所には、上着と額当ての作り方が書かれています。上着はイメージがつきやすいです。大きな布の真ん中に穴をあけてそこから首を出し、ひもで縛って上着の出来上がり!、劇などでもあっという間に役になり切れます。 | ||||
ただこの上着には、仕掛けがありました。裾の回りに金の鈴とざくろの飾りが交互につけられ、祭司が聖所に出入りするときなどには音が鳴るようになっていました。静かに入ると、神さまに殺されてしまったようです。 | ||||
そして額当てですが、純金で花模様を施し、「主の聖なる者」と彫るように指示します。この彫刻によって、祭司アロンはイスラエルの人々の聖なる献げ物に関する罪を負うことになるそうです。純金製なので、首が痛くなりそうですが。 | ||||
11月 8日「出エジプト記28:40〜43」 | ||||
これらの衣服を兄弟アロンとその子らに着せ、彼らに油を注いで祭司の職に就かせ、彼らを聖別してわたしに仕えさせなさい。 (出エジプト記28章41節) |
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新共同訳聖書では「アロンの子らのためにも長い服を作り」となっている箇所が、新しい聖書では「短衣を作り」に代わっています。長いのか、短いのか、一体どちらなのでしょうか。 | ||||
さらに飾り帯とターバンも身につけさせます。アロンの子とは、ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルのことです。彼らもアロンと共に、油を注がれ聖別されて、祭司として任職されます。 | ||||
そして今日の箇所にも、「死ぬことのないように」、どのようなことに気をつけないといけないかが書かれます。神さまのために働くのに、死ととなりあわせとは、何とも大変な役割です。 | ||||
11月 9日「出エジプト記29:1〜14」 | ||||
わたしに仕える祭司として、彼らを聖別するためにすべき儀式は、次のとおりである。若い雄牛一頭と傷のない雄の小羊二匹を取る。 (出エジプト記29章1節) |
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わたしは妻と共に、京都教区主教座聖堂(聖アグネス教会)で司祭按手にあずかりました。祭司と司祭とはその漢字も示す通り、かなり近いイメージがあるかもしれません。しかし念のために言っておきますが、わたしの按手のときに動物の犠牲は献げられませんでした。 | ||||
旧約聖書の中では、人の罪を肩代わりさせるために動物の犠牲が用いられています。祭司に聖別されるアロンたち5人についても、彼らを清めるために「贖罪の献げ物(新しい聖書では『清めのいけにえ』)」がささげられるのです。 | ||||
5人のために連れて来られるのは、若い雄牛一頭と雄羊二匹です。それもわざわざ「傷のない」と書かれています。その動物たちを屠り、血を用いて任職をおこなうのです。ただ今日の描写は、どうしても残酷に感じてしまいます。 | ||||
11月 10日「出エジプト記29:15〜25」 | ||||
その雄羊全部を祭壇で燃やして煙にする。これは主にささげる焼き尽くす献げ物であり、主に燃やしてささげる宥めの香りである。 (出エジプト記29章18節) |
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昨日の雄牛の描写もかなり残酷に感じたのですが、今日の雄羊はもっとかもしれません。ただよく考えると菜食主義者でない限り、わたしたちは命をいただき、生かされています。わたしたちは生きるために、動物たちの血を流しているのです。 | ||||
そのことと、聖書の「献げ物」とは確かに違うかもしれません。けれども自分たちの罪や命のために、血を流すことには変わりはないのです。このような箇所を読むときに、「残酷だ」で終わるのではなく、自分の普段の姿にも目を向けたいものです。 | ||||
この箇所には、「焼き尽くす献げ物(いけにえ)」が出てきます。これは供えた物を、炭になるまで焼いてしまうことです。その匂いだけが天に届けられるので、宥めの香りと呼ばれます。地上に残るのは、食べることのできない炭だけ。文字通り、すべてを献げるのです。 |