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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2023年10月11日〜20日

10月 11出エジプト記222730
 神をののしってはならない。あなたの民の中の代表者を呪ってはならない。
(出エジプト記22章27節)
新共同訳聖書で「民の中の代表者」となっているところは、新しい聖書では「民の指導者」と変わっています。教会にも「指導者」と呼ばれる人たちがいます。神さまの言葉を教え導くその人たちを呪うことは、神さまを呪うこととそんなに変わらないのかもしれません。
また、神さまに対する献げ物を遅らせてはならない(新しい聖書では「ためらってはならない」)という言葉があります。教会によっては、月定(月約)献金を月の初めの主日にささげるように勧めています。「まず感謝する」ということが大切なのです。
そして初子をささげるという決まりも書かれています。出エジプトのときの最後の災いは、エジプトの初子が打たれるというものでした。その災いを逃れたことを思い起こすという理由もあるでしょう。イエス様の誕生物語を見ると、この8日目に割礼を施したようです。
10月 12出エジプト記2315
 あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。
(出エジプト記23章2節)
十戒の中に、「あなたは偽証してはならない」という戒めがあります。聖書には弁護者などの法的言語が登場します。ここでは裁判の絶対性と公平性を重視している内容になっています。
多数派に負けて答弁を変えてはならないというのは、もっともなことです。しかし「ことさらに弱い者をかばうな」というのはどういうことでしょう。裁判は弱者のためにあるのではなく、正義のためにあるということでしょうか。
また憎んだり、敵対している人のろばであっても助けてやりなさいというのは、極めて人道的なものです。イエス様が語られた「良いサマリア人のたとえ」で、サマリア人が敵対していたユダヤ人の旅人を介抱した場面を思い起こします。
10月 13出エジプト記2369
 あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。
(出エジプト記23章9節)
裁判のことがここまで書かれているということは、正しいことがおこなわれず、賄賂がはびこっていたという裏返しです。ただ日本の状況をみても、裁判が真の意味で公正なのか、首をかしげたくなることもあるのが事実です。
正しき者の言い分がゆがめられ、罪なき者や正しき者が殺されるということを、神さまは望まれていないということです。たとえ貧しい人の訴訟であったとしても、憐れみから裁きを曲げることは、神さまの正義に反することなのです。
「寄留者をいたわるように」、この考え方はイスラエルの人たちに浸透していました。ただし旧約聖書を見る限り、彼らはかなり好戦的な部族のように思えますが。「旅人」に対する姿勢とは別なのでしょうか。
10月 14出エジプト記231013
 しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。
(出エジプト記23章11節)
「安息日」というのは新約聖書にも登場するので、わたしたちも聞いたことがあると思います。しかしここで出てくるのは、「安息年」という規定です。
21章2節〜、奴隷を7年目には解放するようにという決まりが書かれていました。ここに書かれているのは、農地を7年目に休ませるということです。そして勝手に生えた作物は、貧しい人や野の獣のための物となります。
ここには「弱者救済」の考え方があります。「安息日」も家畜や奴隷や寄留者が、一息つくためのものでした。あらゆる人が生きることが出来るように神さまが定めたのが、「安息」です。わたしたちも「安息」を大切にしていきましょう。
10月 15出エジプト記231419
 年に三度、男子はすべて、主なる神の御前に出ねばならない。
(出エジプト記23章17節)
続いて「祭り」に関することです。何だか楽しそうな感じがしますが、ここに出てくる祭りとは「礼拝」のことです。神さまに感謝をささげ、祈るという儀式です。三度の祭りはいずれも元々農耕や作物に関するものです。
除酵祭は文字通り、「酵母(パン種)を除く祭」です。出エジプトの際、彼らは急いで支度をしなければなりませんでした。そのためパン種(イースト菌)を入れてパンを焼くことができず、パサパサのパンしか食べられませんでした。
そのことを思い起こすために、除酵祭はおこなわれます。ちなみにあとの二つの祭りは、七週祭と仮庵祭です。その際成人男性は、エルサレム神殿まで行かなければなりませんでした。かなり大変だったと思います。
10月 16出エジプト記232026
 あなたは彼に心を留め、その声に聞き従い、彼に逆らってはならない。彼はあなたたちの背きを赦さないであろう。彼はわたしの名を帯びているからである。
(出エジプト記23章21節)
ここから契約の書は、少し内容が変わります。一人一人に対する決まりというよりも、民全体に関わることに言及していきます。新共同訳聖書の小見出しには、「違反に対する警告」と書かれています。
神さまが遣わす使いとは、出エジプトの中ではモーセのことでしょう。さらに後代では「預言者」と呼ばれる人物のことを指します。「その声に従え」と神さまは命じられます。なぜなら「私(神さま)の名が彼の中にあるから」です。
その導きに従えば、「わたしはあなたの敵に敵対し、仇に仇を報いる」と約束されます。この言葉は、わたしたちには違和感があります。「敵を絶滅させる」という思想は、イエス様の宣教とは違って聞こえるからです。
10月 17出エジプト記232733
 わたしは葦の海からペリシテ人の海まで、また荒れ野から大河までをあなたの領地と定める。わたしはその土地の住民をあなたたちの手に渡すから、あなたは彼らを自分の前から追い出す。
(出エジプト記23章31節)
ここに「約束の地」が示されました。「神さまが定められたもの」という大義名分のもとに、この場所では多くの血が流され続けてきました。ヒビ人、カナン人、ヘト人にとっては、降って湧いてきた災難だと言えます。
神さまがその土地の人たちを追い払うことを約束しているようにも思えるこの箇所は、聖書を文字通りに信じる原理主義の人たちを危ない方向に導いてきたといえます。そしてそれは昔話ではなく、今も続いていることなのです。
この箇所をわたしたちは、どう捉えるべきなのでしょうか。昔に起こったこと、遠い世界の出来事ということではなく、わたしたちが「正典」として読んでいる聖書に書かれていることをどう理解していくか。とても難しい問題です。
10月 18出エジプト記2414
 モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。
(出エジプト記24章4節)
神さまはモーセに、アロン、ナダブ、アビフ、70人の長老たちと共に登って来て、遠くからひれ伏すように指示します。ナダブとアビフはアロンの息子です。そしてモーセはさらに、神さまに近づいていきます。
モーセは神さまから、20章22節から23章の最後まで書かれた「契約の書」を口頭で伝えられ、それをすべて民に伝え、さらに文字にして書き写したということです。ものすごい記憶力だと感心してしまいます。
そしてモーセは、12の石の柱を立てます。奈良基督教会の中にも興福寺の境内だったころのものと思われるお地蔵さんがあります。石の柱は異教の祭壇という理解もありますが、神さまと契約を交わしたしるしとして立てていたようです。
10月 19出エジプト記2458
 モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
(出エジプト記24章8節)
聖餐式の中に、このような言葉があります。「皆この杯から飲みなさい。これは罪の赦しを得させるようにと、あなたがたおよび多くの人のために流すわたしの新しい契約の血です」。これは最後の晩餐のときの、イエス様の言葉でした。
今日の場面でも、契約に血が用いられています。神さまは契約の書に書かれた契約をイスラエルの民に与え、イスラエルの民はその契約を守るという誓いを神さまに対してします。その仲介をモーセがおこなっているのです。
ユダヤ教を含む多くの宗教では、「いけにえ」をささげることで神さまと和解したり、神さまを宥めたり、といったことをします。その度に血が流されるのですが、イエス様の十字架の血によって、キリスト教では動物の血を用いることはなくなりました。
10月 20出エジプト記24911
 神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。
(出エジプト記24章11節)
当時、神(または天使などの神的存在)を見たら死ぬ、と言われていました。これまでも神さまはモーセとだけ語り、モーセが民に神さまの言葉を伝えていくという図式が成り立っていました。
ところがこの場面では、モーセだけでなくアロン、ナダブ、アビフ、イスラエルの70人の長老たちがみな神さまの元に登って行きました。その足元にはサファイア(新しい聖書では「ラピスラズリ」)の敷石のようなものが敷き詰められていたそうです。
そして彼らは、神さまの目の前で会食をしたそうです。この描写は、旧約聖書の中ではとても珍しいものです。しかしイエス様は、罪人や徴税人も含めたあらゆる人と食卓を共にしました。そして今、聖餐式の中で、共に食卓を囲んでくださっています。

バナースペース

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