9月 21日「出エジプト記18:13〜27」 | ||||
全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。 (出エジプト記18章25節) |
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エジプトを出発したイスラエルの人々には、様々な困難が降りかかってきたことでしょう。聖書に書かれている水やパンの問題だけでなく、人々同士の争いや日常の困りごとまで、60万人もいるのですからたくさんあったと思います。 | ||||
モーセは最初、それらすべてのことに耳を傾けていました。その結果、民は朝から晩までモーセのそばに立って、待っていたようです。その様子を見て助言したのが、しゅうとであるエトロでした。 | ||||
彼はいくつかの種類の民の長を任命し、小さな裁きは彼らに任せるようにと言います。そして難しい問題だけモーセ自身が裁くようにアドバイスします。教会を始めとする多くの組織は、この考えの元に成り立っているようにも思います。 | ||||
9月 22日「出エジプト記19:1〜6」 | ||||
あなたたちは見た わたしがエジプト人にしたこと また、あなたたちを鷲の翼に乗せて わたしのもとに連れて来たことを。 (出エジプト記19章4節) |
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この19章には、とても大切なことが書かれています。それはイスラエルの人々がエジプトを出てから三度目の新月の日のことでした。彼らはシナイ山の前に宿営します。 | ||||
シナイ山はシナイ半島のかなり南側です。地図を見る限り、彼らは随分遠回りをしながら進んでいるようにも思えます。しかし平地には原住民も多かったと思われるので、彼らを避け、山が多くある南側を進んだのも無理のないことだと思います。 | ||||
モーセがここで山を登ると、神さまの声が聞こえました。それは、「わたしに聞き従い契約を守るなら、あなたがたはわたしの宝となる」というものでした。つまりお互いが義務を負う「双務契約」を提示されたのです。 | ||||
9月 23日「出エジプト記19:7〜9」 | ||||
モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。 (出エジプト記19章7節) |
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モーセは神さまが語られたことを、民に告げました。その内容は、「わたしに聞き従い契約を守るなら、あなたがたはわたしの宝となる」というものです。神さまの戒めを守るなら、神さまが自分たちを守ってくれるというわけです。 | ||||
イスラエルの民は、このモーセの言葉を聞き、神さまの戒めを守ることを誓います。これで契約が成立したのです。しかしこの契約は、いわば「条件付き」で神と民という関係になれるというものでした。 | ||||
旧約(古い契約)は、この関係が基礎となっています。神さまの戒めを守った正しい人だけが救われる、そのような考えだといってもいいと思います。しかし聖書を読み進めていくと、人間が自分の力でこの契約を守ることはできないことに気づかされていくのです。 | ||||
9月 24日「出エジプト記19:10〜19」 | ||||
シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。 (出エジプト記19章18節) |
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神さまはモーセに、民を聖別し服を洗わせ、三日後にあわせて準備をするように伝えさせます。この「民」というのはイスラエルの60万人全員ではなく、「〜の長」と呼ばれるいわゆるリーダーたちのことでしょうか。 | ||||
山を聖域として民に近づかせないこの描写は、日本の比叡山や高野山といった「自然崇拝」に近い考え方にも見えます。しかし聖書がここで伝えたいのは、「神さまに不用意に近づくな」ということなのでしょう。 | ||||
神さまに出会うためには身を清めないといけないというのも、神社の手水舎(手を洗うとこと)を思い起こしてしまいます。清くなければ殺されてしまう。清くなければ神さまに出会えない。その考え方は、キリスト教とは大きく違っているように思います。 | ||||
9月 25日「出エジプト記19:20〜25」 | ||||
モーセは主に言った。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです。」 (出エジプト記19章23節) |
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神さまはまずモーセを呼び寄せました。そして民には近寄らないように命じます。すでに山には境が設けられ、聖別するように命じられていたので、当然民は近づくことができないのにもかかわらずです。 | ||||
今日の箇所を見ると、神さまは民がご自分に近づいてくることを、とても嫌がっているようにも感じます。モーセとアロンはいいけれども、民が近づくと殺すぞと警告されているのです。 | ||||
そこにはどのような思いがあったのでしょうか。「神を見たら死ぬ」とイエス様の誕生物語の時代にも信じられていました。「神、共にいまして」と歌うわたしたちには、少し違和感がある記述です。 | ||||
9月 26日「出エジプト記20:1〜6」 | ||||
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。 (出エジプト記20章4節) |
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ここから神さまは、「十戒」と呼ばれる掟を伝えていきます。今日の箇所には、第一と第二の掟が書かれています。掟を語る前に神さまは、「わたしがイスラエルの人々をエジプトから導き出した」と自己紹介します。 | ||||
第一の掟は。「あなたはわたしのほかに神々があってはならない」というものです。キリスト教が「一神教」と呼ばれる所以です。ただ聖書にはバアルの神などとの対決も描かれますので、「あなたにとって」ということが大切なのです。 | ||||
二つ目は像を造るなというものです。新しい聖書では、「自分のために」という言葉が入っています。文字通りに読むと、神さまを賛美するために造られたものであればOKとも捉えることができそうです。 | ||||
9月 27日「出エジプト記20:7〜11」 | ||||
六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。 (出エジプト記20章11節) |
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次に第三、第四の掟です。一つ目は、主の名をみだりに唱えるなというものです。ここで禁止しているのは、神の名にかけて誓う行為です。けれども神さまの名前自体を呼ぶことすらダメだと解釈してしまい、その読み方がわからなくなってしまったという歴史もあります。 | ||||
そして安息日の規定です。聖書にあるとおり、天地創造の場面で神さまは七日目に休まれたので、その日を聖なる日として聖別されました。この日は奴隷も家畜も含めて、安息が与えられる恵みの日でした。 | ||||
しかし「いかなる仕事もしてはならない」という言葉が強調されてしまい、安息日には人の目を気にしながら、窮屈な思いで過ごす人々も多くなっていきます。のちにイエス様は、安息日の本当の意味を回復されていきます。 | ||||
9月 28日「出エジプト記20:12〜17」 | ||||
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。 (出エジプト記20章12節) |
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娘が幼稚園の頃だったでしょうか、旅行先で訪れたカトリック教会に「み言葉おみくじ」というものがありました。娘が引いたところ、出てきたみ言葉は「あなたの父と母を敬いなさい」でした。思わずガッツポーズをしたものです。 | ||||
十戒の最初の4つが神さまとの関係についての掟だったのに対し、後半の6つは人間関係に関するものとなっています。父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、むさぼるなという掟は、わたしたちの周りにある法律に近いものがあるようにもみえます。 | ||||
しかし新約聖書の中でイエス様は、これらの掟は決して法的なものだけではないと言われます。ばかといっただけで殺したことになる、情欲を持った目で他人の妻を見たら姦淫したことになる、そうイエス様は人々に教えられます。 | ||||
9月 29日「出エジプト記20:18〜21」 | ||||
モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」 (出エジプト記20章20節) |
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映画などで神さまが登場する場面では、雲が広がり、突風が吹き、雷が落ち、豪雨に見舞われ、とそのようなイメージが多いように思います。仏教では仏様が来られるのはさわやかな日差しの中という描かれ方がほとんどのような気もしますが。 | ||||
今回神さまは、人々に恐れを抱かせるためにこのような「演出」をされたようにも思います。実際民は、見て震え、遠く離れて立ったそうです。そしてモーセに、自分たちと神さまとの仲介をするようにと願います。 | ||||
ただこの神さまのやり方には、ちょっと首をかしげてしまいます。どうしても守って欲しいことがあるとき、「守らなかったらどんなに怖い目にあうか」想像させて守らせる方向に持っていっているように思えるからです。 | ||||
9月 30日「出エジプト記20:22〜26」 | ||||
あなたたちはわたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない。 (出エジプト記20章23節) |
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ここから聖書は、「契約の書」の内容に入っていきます。これがここから23章まで続いていきますが、みなさんのうち誰も「日ごとの聖書」通読から脱落しないようにと願うばかりです。(わたしも含めて) | ||||
銀の神々、金の神々を自分のために造るという行為は、異教の神にひれ伏すということをあらわします。十戒でも第一、第二は「他に神があってはならない」、「像を造るな」でした。神さまとの関係を正しく保つこと、そのことがとても大事なのです。 | ||||
また「焼き尽くす献げ物(いけにえ)」という言葉がここから登場します。焼き尽くすというのは、ささげる物を黒焦げにすることです。人間には食べるところが残されない、つまりすべてを神さまにささげる、絶対服従の思いが込められているのです。 |