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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2023年9月1日〜10日

9月 1出エジプト記131116
 ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。
(出エジプト記13章13節)
「贖い」という言葉が出てきます。あまり日常では使われない、いわゆる「キリスト教用語」です。聖書では人手に渡った財産や土地に対して賠償金を払って買い戻すことや、身代金を払って奴隷を自由にするという意味で使われます。
さらに罪の償いのための犠牲など、さまざまなささげ物をささげることにも「贖い」という言葉が用いられます。そしてここでは初子をささげることによって、イスラエルの人々が死の中から救い出されるというのです。
この出来事は、イエス様の十字架にもつながっています。神さまは独り子であるイエス様を十字架につけられました。その血によって、わたしたちは生きる者とされました。そのただ一度の死によって、わたしたちは贖われたのです。
9月 2出エジプト記131719
 神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った。
(出エジプト記13章18節)
ペリシテ人はカナン地方の沿岸に住んでいました。彼らは体格が良く、鉄製の武器も使っていたようです。戦いにも慣れていた彼らを見ると、イスラエルの人々は恐れるだろうと神さまは考えました。
そこで遠回りですが、神さまは葦の海に通じる荒れ野に民を導きました。イスラエルの人々はずっとエジプトの奴隷として働いていたので、戦いを仕掛けられたらひとたまりもなかったでしょう。
さてモーセは、ヨセフの骨を携えていました。イスラエルの人々がエジプトに来てから430年が経っていました。それだけの長い年月を経ても、先祖の墓に葬られることはとても重要なことだったのです。
9月 3出エジプト記132022
 主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。
(出エジプト記13章21節)
神さまはイスラエルの人々を導きます。昼は雲の柱として、そして夜は火の柱として彼らを導きます。このことはモーセやイスラエルの人々にとって、とても心強いことだったでしょう。
「約束の地」と言われても、グーグルマップがあるわけではありません。また60万人という人が移動するわけです。遠くからでも見ることができるしるしがあれば、人々は迷わなくてすむのです。
ただ、夜も行進しなければならなかったというのは、大変だったことでしょう。毎日の宿営地選びも大変でしょうし、みんなついてきているのか、確認することも大変です。何もかもが大変な中、イスラエルの人々は出発したのです。
9月 4出エジプト記1414
 するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。
(出エジプト記14章3節)
驚くべきことに、神さまはイスラエルの人々にせっかく逃げてきた道を引き返すように伝えます。それは彼らが荒れ野で道に迷ったと思わせるため、簡単に言うとファラオたちを罠にかけるためでした。
神さまはさらに、ファラオの心もかたくなにします。つまり明日以降の箇所に出てくる場面、エジプト軍がイスラエルの人々を追ってきたというのは、神さまのご計画だったということになります。
聖書はこのように、「聖戦」という考えを支持しているようにみえます。それは旧約聖書に顕著に見られ、十字軍や対テロ戦争など、極端な思想を生み出していきました。わたしたちが聖書を読むときには、「敵を愛せ」と言われたイエス様の言葉を忘れないようにしましょう。
9月 5出エジプト記14514
 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。
(出エジプト記14章14節)
エジプトの王ファラオとその家臣たちは、イスラエルの人々をエジプトから去らせたことを後悔します。ただし昨日の箇所にあった通り、その根底には「ファラオの心をかたくなにした」神さまの存在があります。
エジプト軍はえり抜きの戦車600台を始めとするエジプトの全戦車を集めました。いくらイスラエルの人々が600万人いたとしても、戦車の前に歩兵は無力です。彼らはこのままでは滅ぼされてしまうと叫びます。
しかしモーセは、「恐れてはならない」と言います。モーセはイスラエルの人々に、「主があなたたちのために戦われる」と語ります。この箇所で聖書が伝えたいのは、この言葉なのです。
9月 6出エジプト記141518
 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
(出エジプト記14章16節)
神さまはモーセに言われます。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか」と。ただし叫んでいるのはイスラエルの人々であって、モーセは「あなたがたは静かにしていなさい」とたしなめていましたが。
神さまはモーセに、自分の杖を上げるように命じられます。海に向かって手を伸ばすと、海が二つに割れるというのです。にわかには信じがたいことを、神さまは告げられました。
さらに神さまは、エジプト人の心までかたくなにします。この「徹底的に滅ぼす」という考え方は旧約聖書の随所に見られ、このことによって神さまは自らの栄光を示します。他の示し方があるように思ってしまうのは、わたしだけでしょうか。
9月 7出エジプト記141925
 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。
(出エジプト記14章21節)
神さまは雲の柱をイスラエルの人々とエジプト軍の間に移動し、両軍の接近を拒みます。雲の柱の中には、神の使いがいたようです。そしてついに、モーセが葦の海に向かって、手を伸ばすときがきました。
「十戒」と聞くと、チャールトン・ヘストン出演の映画を思い浮かべる方も多いでしょう。(中森明菜の歌を思い出す人もいるかも)。映画の中で、モーセが手を伸ばし、海が割れるシーンは圧巻でした。
水は壁のようにそびえたち、中には魚も泳いでいました。まるで水族館です。そのような状況で先を急ぐイスラエルの人々。そして追うエジプト軍。追う方も追われる方も、不気味だったに違いありません。
9月 8出エジプト記142631
 モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。
(出エジプト記14章27節)
葦の海を進んでいる間、神さまはエジプト軍をかき乱されました。そのためエジプト軍の中には、「もう逃げよう」という声をあげる人もいました。しかし神さまはモーセに次の指示を出させます。
モーセが次に手を伸ばすと、海の水が元に戻るというのです。それはエジプト軍の死を意味していました。ファラオの軍隊も含め、すべてが海の底に沈んでいくのです。このような旧約の記述を、わたしたちはどう受け取ればよいのでしょう。
実はエジプトの歴史書に、出エジプトのことは書かれていないそうです。60万人のイスラエルの人々がいなくなり、ファラオが亡くなったのにも関わらずです。聖書は神さまの偉大さを伝えるために、このような物語を載せたのでしょうか。
9月 9出エジプト記15118
 主はわたしの力、わたしの歌 主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
(出エジプト記15章2節)
エジプト軍が海に沈められたのを見て、モーセとイスラエルの人々は歌を歌いました。「何を呑気な」と思うかもしれませんが、たとえば詩編も歌ですし、マリアの賛歌やザカリアの預言も歌です。
神さまを賛美したり、神さまに感謝したり、そのようなときに「歌」が歌われます。そしてこれらの歌は、信仰告白とも言えます。「この方こそわたしの神、わたしは彼をたたえる」という言葉は、モーセの信仰を現わしているのです。
ただこの歌の中には、ペリシテやエドム、モアブやカナンという名称が出てきます。モーセはエジプトの近辺にずっといました。ですからこの歌は、いろいろな伝承が混ざり合っているとも考えられています。
9月 10出エジプト記151921
 アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。
(出エジプト記15章20節)
ここでアロンの姉であるミリアムが登場します。アロンはモーセの兄と書かれていたので、ミリアムはモーセの姉にもなると思いますが、聖書はそのことについて何一つ言及していません。
当時戦いから帰ってきた男性を、女性たちが歌い踊りながら出迎える習慣があったようです。彼女が手にしていたのは新共同訳聖書では「小太鼓」と書かれていましたが、新しい聖書では「タンバリン」になっています。
アロンはレビ人で、祭司の一族でした。そしてその姉ミリアムは、「女預言者」だったそうです。イスラエルにおいてこのきょうだいは、とても重要な役割を持つ人たちだったようです。

バナースペース

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