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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2023年8月21日〜31日

8月 21出エジプト記91335
 雹は、エジプト全土で野にいるすべてのもの、人も家畜も残らず打った。雹はまた、野のあらゆる草を打ち、野のすべての木を打ち砕いた。
(出エジプト記9章25節)
第七の災いは、「雹の災い」です。雹とは気象庁の予報用語では、「積乱雲(強い上昇気流によって鉛直方向に著しく発達した雲)から降る直径5mm以上の氷塊」だそうです。ちなみに5mm未満の氷塊は、「あられ」と呼びます。
テレビのニュースなどで、車のボンネットをボコボコにしてしまう雹の威力を見ることがあります。コンクリートの建物に隠れることができればいいですが、当時のエジプトでは被害も大きかったことでしょう。
ファラオは「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である」と反省します。しかし今回も、口だけだったようです。雨も雹も雷もやむと、ファラオはまたしても心をかたくなにしました。
8月 22出エジプト記10120
 いなごは地表を覆い尽くし、地面を見ることもできなくなる。そして、雹の害を免れた残りのものを食い荒らし、野に生えているすべての木を食い尽くす。
(出エジプト記10章5節)
「10の災いシリーズ」も佳境に差し掛かってきました。2時間ドラマだと、夜10時30分ごろでしょうか。ここからCMが増えていきます。第八の災いは、「ばったの災い(協会共同訳聖書)」です。何か違和感ありませんか。
子どもの頃に10の災いを暗記させられた方は、「あれ?ばったなんか出て来たっけ?」と思ったのではないでしょうか。新共同訳聖書では「いなご」でしたが、「ばった」に変えられました。いなごは稲の天敵ですが、ばったにはあまりそのようなイメージはありません。
しかしばったは、エジプトに残った緑のものを食い尽くしたそうです。一匹であれば手に乗せても大丈夫ですが、大量発生するとまあ怖いものです。それでもファラオは反省するようなことは言いますが、心はかたくななままです。
8月 23出エジプト記102129
 モーセは答えた。「よくぞ仰せになりました。二度とお会いしようとは思いません。」
(出エジプト記10章29節)
第九の災いは、「暗闇の災い」です。直接の被害がない分、地味にも思えますが、三日間の真っ暗闇は想像もできないほど恐ろしいものでしょう。お互いの顔を見ることができないばかりか、立ち上がることさえできないのです。
わたしたちは、暗闇に慣れていません。夜中じゅう街灯は光り、24時間営業のコンビニがあり、「真の暗闇」を経験することはあまりありません。もし3日間の暗闇が襲ってきたら、大パニックになるでしょう。
ファラオはモーセたちに、「行け」と言いますが、羊と牛は残すようにと言います。しかしモーセは、家畜も連れて行くのだと言います。いけにえが必要だからです。交渉は決裂しました。モーセはファラオの前から出て行きました。
8月 24出エジプト記1113
 主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされた。モーセその人もエジプトの国で、ファラオの家臣や民に大いに尊敬を受けていた。
(出エジプト記11章3節)
神さまはファラオとエジプトの上に、さらに一つの災いを下すことをモーセに伝えます。これが「第十の災い」になるのですが、今日の箇所にはまだその内容は書かれていません。最後の災いは、かなり丁寧に書かれます。
神さまは、ファラオがモーセたちをエジプトから追い出すことを明言します。これまでは神さまがファラオの心をかたくなにしていましたが、今回はそうしないということなのでしょうか。
そしてイスラエルの人々に、隣人(エジプト人)から銀や金の飾り物を求めるように伝えさせます。それも強引に奪い取るのではなく、エジプト人がイスラエルの人々に好意を持つように、神さまが仕向けるのです。至れり尽くせりです。
8月 25出エジプト記11410
 そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。
(出エジプト記11章5節)
第十の災いは、「初子の災い」です。エジプトの地のすべての初子は、家畜の初子に至るまですべて死ぬという、恐ろしいものです。神さまが深夜エジプトの中を歩むことによって、この災いが引き起こされるのです。
第九の災いのときに「二度とお会いしようとは思いません」とファラオに言い放ったモーセですが、今回のこの災いのことを言いにファラオの元に行っています。この恐ろしい災いが起こる前に、自分たちを去らせて欲しいという思いもあったのかもしれません。
しかし神さまは、またしてもファラオの心をかたくなにしてしまいます。エジプトの地に恐ろしいことが起こることを、神さまは望んでおられたのでしょうか。イスラエルの人々にとってはいいのかもしれませんが。
8月 26出エジプト記12113
 その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。
(出エジプト記12章12節)
第十の災いをおこなう前に、神さまは「どうやったらその災いを免れることができるか」を指示します。疫病や雹、暗闇の災いなどのときは、神さまはイスラエルの民をご自分で区別させ、そこには被害が及ばないようにしていました。
しかし今回は違いました。決められた日に、決められた形の食事をおこない、そして家の入口の二本の柱と鴨居に小羊の血を塗るという決められた儀式をおこなうことが定められています。
これらの様々な儀式が、「〜しなければならない」というものとしてユダヤ教には残っていきます。ただキリスト教では、それらの旧約聖書に書かれた決まり事を、ほとんど受け継いでいません。その理由は、使徒言行録やパウロの手紙などで学んでいきましょう。
8月 27出エジプト記121420
 七日の間、家の中に酵母があってはならない。酵母の入ったものを食べる者は、寄留者であれその土地に生まれた者であれ、すべて、イスラエルの共同体から断たれる。
(出エジプト記12章19節)
昨日の箇所には、「過越祭」のやり方が書かれていました。そして今日は「除酵祭」です。その字のとおり、酵母(イースト菌・パン種)を取り除く祭りです。過越祭は第一の月(日本では3月か4月)の14日の夕方です。
続いて除酵祭は21日夕方まで続きます。この二つの祭りはイスラエルの人々がエジプトから解放されたことを記念する祭りですが、いつの間にか過越祭に組み込まれていきました。また十字架の前にイエス様がなさった過越の食事が、「最後の晩餐」と呼ばれるものです。
これらの祭りには、「これをおこなわないとイスラエルの民から断たれる」という意味がありました。彼らは自分たちのアイデンティティを守るために、様々な決まりを作っていったようです。それがわたしたちに引き継がれなくて、本当によかったです。
8月 28出エジプト記122128
 こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」
(出エジプト記12章27節)
モーセは神さまが命じた通りのことを、イスラエルの長老たちに伝えます。まず家族ごとに羊を過越のいけにえとして屠ること、そしてヒソプを使って羊の血を入り口の鴨居と二本の柱に塗ることを命じます。
神さまがエジプト人を打つために行き巡るときに、そのしるしを見て過ぎ越すためです。この出来事を「主の過越」と呼び、それを記念する祭りを「過越祭」と呼ぶことになります。
もう一つモーセは、長老たちに命じました。それはこの儀式を子孫たちに、掟としてとこしえに守らなければならないということ、そしてその意味を伝え続けなければならないということです。イスラエルの民としてのアイデンティティを守ることが、重要視されるのです。
8月 29出エジプト記122936
 エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。
(出エジプト記12章33節)
ついに神さまは、エジプトのすべての初子を打たれます。疫病の災い(9章1〜7節)で「エジプトの家畜はすべて死に」と書かれていましたが、今回、家畜の初子もすべて打たれたとあります。どこから湧いたのでしょう。(しつこくてすいません)
その中には、ファラオの初子(ということは王子で、次期ファラオになるはずだった)も含まれていました。ファラオもこれには耐えられなかったようで、モーセもアロンも、そしてイスラエルの民も羊や牛に至るまで、エジプトから出ていくように伝えます。
彼らは急ぐあまり、パン種(イースト・酵母)を入れていない生地をもっていきます。それが「除酵祭」の起源です。またエジプト人に金や銀などを求めた結果、エジプト人はその求めに応じます。それはエジプト人が彼らに好意を持っていたためでした。
8月 30出エジプト記123751
 イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。
(出エジプト記12章37節)
ファラオの「出て行きなさい」という言葉を受け、イスラエルの人々はスコトに向けて出発しました。スコトはエジプトとシナイ半島の真ん中あたりです。とりあえずエジプトを出るということなのでしょう。
その数はなんと、壮年男子だけで約60万人!ちなみに新しい聖書では「徒歩の男だけで」となっており、どうして女性や子どもだけではなく馬などに乗っている人を省くのか、不思議な気がします。「兵士になりうる数」を伝えたかったのでしょうか。
430年の間、イスラエルの人々はエジプトにいました。そのきっかけは、ヨセフが父ヤコブや兄弟たちを飢饉から救うために彼らをエジプトに呼び寄せたことでした。そして今、神さまが自分たちの間を過ぎ越され、エジプトの地から導き出されるのです。
8月 31出エジプト記13110
 「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。」
(出エジプト記13章2節)
神さまはイスラエルの人々に、二つのことを命じます。一つは前の箇所でも書かれていた、除酵祭についてです。7日間種なしパンを食べ、7日目に主の祭りをおこなわなければならないということです。
ただしこれは、「乳と蜜の流れる地に導き入れられたなら」という条件が付けられていますので、これから始まる荒れ野での期間は省かれていると思われます。(本当にそうであったかはわかりません)
そしてもう一つは、「初子を献げる」というものです。人だけではなく家畜も含めて、すべての初子は神さまのものとなるのです。ただしいけにえとして献げるのではなく、聖別するという意味です。イエス様が献げられた被献日は、この戒めに基づいたものです。

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