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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2023年7月21日〜31日

7月 21「創世記501821
 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
(創世記50章20節)
昨日の箇所でヨセフの兄たちは、人を介してヨセフに対する罪の赦しを乞いました。そして今日の場面では直接ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕(しもべ)です」と言います。兄というプライドはどこにもみられません。
ヨセフはそれを聞き、「そう言うのであれば」と兄たちを奴隷のように従えたでしょうか。そんなことはありませんでした。それどころか、すべてのことは神さまのみ心であり、そのおかげで多くの民の命が救われたと言うのです。
これこそが、ヨセフ物語の主題でした。すべてのことは、神さまのご計画の中で進んで行ったのです。人間の目から見たら苦しみに感じるときにも、いつも神さまがそばにいてわたしたちは生かされているのだと覚えておきたいと思います。
7月 22創世記502226
 ヨセフはこうして、百十歳で死んだ。人々はエジプトで彼のなきがらに薬を塗り、防腐処置をして、ひつぎに納めた。
(創世記50章26節)
ついに創世記が終わります。7ヶ月半以上かけて、丁寧に読み進めてきました。何人の方が最後までお付き合いくださったか、心配ではありますが。(この文章がただの独り言になっていたら、少し悲しいです)。
創世記の最後は、ヨセフの死で締めくくられます。ヨセフは110歳で亡くなりました。兄弟に語り掛ける場面があるので、兄弟の何人かはまだ生きていたのでしょう。彼は最後に、このことを告げます。
それは神さまが必ずイスラエルの子らを顧み、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上るということです。それが明日から読んでいく「出エジプト記」の主題となります。ヨセフの埋葬は、そのときまで待たれることとなります。
7月 23出エジプト記117
 イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。
(出エジプト記1章7節)
今日から今年いっぱい掛けて、出エジプト記を読んでいきます。出エジプト記には2つの大きな物語が書かれています。一つはイスラエルの人たちがエジプトを脱出する物語、もう一つは神さまがモーセに与えた十戒の物語です。
7年間の飢饉の中でヨセフによってエジプトに連れて来られたイスラエル(ヤコブ)たち家族は、総勢70名でした。エジプトの王ファラオは、ゴシェンを彼らの住む場所として与えます。彼らは家畜を飼いながら、不自由なく暮らしていたことでしょう。
また神さまの祝福によって、彼らの数はおびただしく増えていったようです。そのため、イスラエルの民はゴシェンのみならず、エジプトの国中に溢れていきます。このことが、騒動の発端となりました。
7月 24出エジプト記1814
 エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。
(出エジプト記1章11節)
ヨセフは当時のエジプト王ファラオの夢を解き明かし、エジプト全土を治める者となりました。そのときから14年の間に起こる出来事を言い当てたからです。その結果、エジプトは国中の銀、家畜、土地と穀物を交換し、豊かになりました。
それから長い年月が過ぎ、エジプト王ファラオは代替わりをしていきます。聖書にはそれぞれのファラオの名前が書かれていませんのでわかりづらいですが、この先登場するファラオは、「ヨセフの功績を知らない」ファラオです。
当時はグローバル社会とは到底言えず、自分たちと違う民族の人を受け入れることはあまりありませんでした。ファラオは彼らが強大になるのを恐れ、力を削ぐために彼らの重い苦役を課すことにしました。
7月 25出エジプト記11522
 「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」
(出エジプト記1章16節)
イスラエルの人々が増え続けるのを見て、ファラオは恐ろしい決断を下します。それはヘブライ人(イスラエル民族と同じ意味で使われています)が子どもを産んだときに、男の子であれば殺せということです。
ファラオはこの命令を、シフラとプアという助産婦に対して告げました。二人だけですべてのヘブライ人の出産を助けたとも思えませんが、彼女たちはこの命令を拒みます。神さまを畏れていたからでした。
「ヘブライ人の女性は丈夫だから、自分たち助産婦が到着する前に子どもを産んでしまう」という信じられないような嘘で、彼女たちは窮地を免れます。そこでファラオは、「生まれた男の子はすべてナイル川に投げ込め」という新たな命令を下すのです。
7月 26出エジプト記2110
 そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」
(出エジプト記2章7節)
ここからモーセの生い立ちに入ります。祭司の家系であるレビの子孫の男女が結婚し、男の子を産みます。男の子はナイル川に投げ込まないといけませんでしたが、そんなことができるわけもなく、3か月間こっそり隠していました。
しかしもう隠しきれないと思い、パピルスの籠に入れ、水草の茂みに置いていました。赤ちゃんの姉(いつの間に生まれたのでしょう?)が遠くから、その様子を探っていたところ、ファラオの娘がそれを見つけます。
赤ちゃんはファラオの娘によって、モーセと名付けられました。「引き上げた(マーシャー)」に由来するエジプト名です。モーセの姉の機転により、赤ちゃんは実の母親の母乳によって育てられます。そして大きくなったモーセは、ファラオの宮廷で育つことになります。
7月 27出エジプト記21115
 モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。
(出エジプト記2章12節)
月日は流れ、モーセは成人しました。彼はファラオの娘の子どもとして育てられましたが、その出生については聞かされていたのでしょう。彼は同胞のヘブライ人がエジプト人に打たれるのを見て、そのエジプト人を打ち殺し、砂に埋めてしまいます。
そのことは翌日には、人々の知るところとなりました。誰かが打たれているのを見たからその人を殺す。それは「目には目を歯には歯を」という「報復するなら同じ程度にしなさい」との掟を超えた、「やりすぎ」の報復です。
ファラオはこのことを聞き、モーセを殺そうとします。自分の部下が殺されたので、モーセを同じ目にあわせるということです。これは「同程度」の報復です。死を恐れたモーセはファラオの手を逃れ、ミデヤンの地にたどりつきました。
7月 28出エジプト記21622
 羊飼いの男たちが来て、娘たちを追い払った。モーセは立ち上がって娘たちを救い、羊の群れに水を飲ませてやった。
(出エジプト記2章17節)
ファラオの手から逃れたモーセは、ミデヤンの井戸のほとりにいました。そこにミデヤンの祭司の7人の娘がやって来て、井戸の水を汲み、羊の群れに飲ませようとしました。しかし羊飼いたちが彼女たちを追い出そうとします。
ヤコブとラケルも、井戸で出会いました(創29:1〜8)。またイサクの妻を探しに行った僕(しもべ)も、リベカと井戸で出会いました(創24:15〜21)。井戸は当時の社交場であり、様々な出会いの場所でした。
モーセは羊飼いから彼女たちを助けました。そのことがきっかけで、モーセはミデヤンの祭司レウエルの娘ツィポラを妻とします。彼はエジプト人と思われていたようです。そしていわゆる異邦人を妻としました。
7月 29出エジプト記22325
 それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。
(出エジプト記2章23節)
モーセを捜し、殺そうとしたファラオは死にました。そして新しいファラオがエジプトの王となりましたが、彼の代になってもイスラエルの人々に対する厳しい姿勢は変わりませんでした。イスラエルの人々は変わらず、重い苦役にあえいでいました。
イスラエルの人々の助けを求める叫び声は、神さまの元に届きます。祈りによるものか、どういう形なのかはわかりません。しかし確かに神さまはその声を聞かれ、み心に留められるのです。
「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。(創世記17章7節)」にあるように、神さまはアブラハムと契約を結ばれていました。神さまはそれを思い起こされたのです。
7月 30出エジプト記316
 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
(出エジプト記3章5節)
羊飼いとなったモーセは、群れと共に神の山ホレブに来ます。すると柴の間で燃え上がる炎の中に主のみ使いが現れました。不思議なことに、柴は一向に燃え尽きません。これが、「燃え尽きない柴」の話です。
モーセは近づいて、見に行きます。主のみ使いがいるのに、大胆な行動です。普通は恐ろしくて逃げたり、ひれ伏して拝んだりという行動に出そうですが。そのモーセに対して、神さまは語り掛けます。
その一言目は、「近づくな、履物を脱ぎなさい」というものでした。そこは聖なる土地だからです。この言葉を元に、ユダヤ教の至聖所は神聖な場所とされてきました。しかしイエス様の十字架の死によって至聖所の垂れ幕は二つに裂け、その隔たりはなくなります。
7月 31出エジプト記3712
 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
(出エジプト記3章11節)
神さまがモーセに語ったのは、驚くべき内容でした。「わたしはイスラエルの人々の苦しみを聞いた」、「わたしは降って行ってわたしの民をエジプトの手から救い出し、豊かで広い地、乳と蜜の流れる地に導き上る」、ここまでは、神さまの一方的な決意です。
しかし続けて神さまは言われるのです。「わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。モーセが「わたしは何者でしょう」と言いたくなるのもうなずけます。
わたしたちの宣教も、これと同じです。「なぜわたしが?」、「神さまが直接やってくださいよ」と思う場面もたくさんあるかもしれません。しかし「共にいる」神さまと一緒に働くことが、とても大事なのです。

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