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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2023年7月11日〜20日

7月 11「創世記472731
 ヤコブは、エジプトの国で十七年生きた。ヤコブの生涯は百四十七年であった。
(創世記47章28節)
ヤコブの一族は家畜を飼って生活しており、土地を持ってはいませんでした。そのため飢饉が来ると、彼らはたちまち食糧に困るようになりました。飢饉の中では誰も農作物を分けてくれないからです。
エジプトの地でも、彼らはいわゆる寄留者でした。生活が保障されているとはいえ彼らはよそ者でした。ヤコブはそこで17年生きましたが、心の中には生まれ故郷に帰りたいという思いがあったのかもしれません。
ヤコブはヨセフに願います。自分が死んだときには、先祖たちと同じ墓に葬って欲しいと。エサウとの件で一度ヤコブは家を出ました。一度は戻りますが飢饉のために、次はエジプトまで来ました。それでも自分の故郷に葬られ、先祖の列に加わりたいと願ったのです。
7月 12創世記4817
 ある人がヤコブに、「御子息のヨセフさまが、ただいまお見えになりました」と知らせると、イスラエルは力を奮い起こして、寝台の上に座った。
(創世記48章2節)
イスラエル12部族という言葉があります。イスラエル(ヤコブ)は12人の息子に嗣業の地を与え、それぞれの息子の名を土地の名前としました。しかしイスラエルの子どもの名前と部族の名前は一致しません。
部族の中にイスラエルの息子であるレビとヨセフの名前がなく、今日の箇所に出てくるマナセとエフライムというヨセフの息子二人の名前が付けられているのです。これはどういうことなのでしょう。
レビは祭司の一族でしたので、土地を持ちませんでした。またイスラエルは今日の箇所で、ヨセフの二人の子を自分の子どもにしました。このことによってイスラエルの相続地は、ルベンやシメオンなどの兄弟とヨセフの息子の名前で呼ばれることになったのです。
7月 13創世記48816
 イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。
(創世記48章14節)
いよいよイスラエル(ヤコブ)に死が迫ってきました。彼はその前に、ヨセフの子たちを祝福します。昨日の箇所では、イスラエルはヨセフに「お前の二人の息子をわたしの子どもにしたい」と申し出ていました。
ヨセフは兄のマナセをイスラエルの右側に、弟のエフライムを左側に向かわせて近寄らせます。「神の右に座しておられます」という言葉もあるように、右の方が左よりも権威があると考えられていました。
しかしイスラエルは手を交差して、弟の頭に右手、兄の頭に左手を置きます。兄と弟の祝福が逆転してしまうのです。イスラエル(ヤコブ)が父を騙して、兄エサウの祝福を奪い取った出来事が思い起こされます。
7月 14創世記481720
 ヨセフは、父が右手をエフライムの頭の上に置いているのを見て、不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。
(創世記48章17節)
手を交差して弟エフライムに右手を置く父を見て、ヨセフは不満に思いました。彼は、兄であるマナセに、大きな祝福が与えられるべきだと思っていたのです。自分は以前、夢で見たこととはいえ、兄たちが自分を拝むと伝えていたにもかかわらずです。
しかしイスラエルは、「このままでいい」と手を交差させたままにしました。兄マナセも確かに大きくなるが、弟エフライムの方がより大きくなると、彼には分かっていたようです。
そしてイスラエルは右手をエフライムの頭の上に、左手をマナセの頭の上に置いたまま、祝福を与えました。これにより、エフライムはマナセの上に立てられました。新しい聖書では、「上に立てられた」の部分を「先になった」と訳しています。
7月 15創世記482122
 わたしは、お前に兄弟たちよりも多く、わたしが剣と弓をもってアモリ人の手から取った一つの分け前(シェケム)を与えることにする。
(創世記48章22節)
イスラエルはヨセフに、自分が間もなく死ぬことを告げます。愛する妻リベカの子であるヨセフは、イスラエルの一族を飢饉から救い出しました。ですからイスラエルは、彼に特別な分け前を与えます。
新しい聖書では「私はお前に、兄弟よりも一つ多く分け前を与える」と書かれている箇所は、前の新共同訳聖書では、「わたしは、お前に兄弟たちよりも多く、…一つの分け前(シェケム)を与えることにする」と訳されていました。
サマリアとシロの間に、シェケムという土地があります。その場所をヨセフは与えられたようです。やはり新しい聖書では、そのあたりの理解がしにくくなっているように感じてしまいます。
7月 1649128
 ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。」
(創世記49章1節)
今日の箇所は「ヤコブの祝福」という小見出しがつけられた箇所です。ヤコブは死に際し、12人の息子に対してそれぞれ祝福の言葉を語りました。しかしその内容を見ると、まず批判されている人(ルベン、シメオン、レビ)が目に入ります。
また他の兄弟より明らかに内容が薄い人(ガド、アシェル、ナフタリ)もいて、彼らにしたらこれを素直に祝福だと感じることはできなかったでしょう。それに比べヨセフに対しては、ヤコブは長々と祝福の言葉を述べています。
もう一人、好意的に書かれている人物がいます。それはユダです。「王笏はユダから離れず 統治の杖は足の間から離れない」と書かれている通り、マタイ福音書の系図によれば、イエス様はユダの子孫として誕生しています。
7月 17創世記492933
 それはカナン地方のマムレの前のマクペラの畑にある洞穴で、アブラハムがヘト人エフロンから買い取り、墓地として所有するようになった。
(創世記49章30節)
日本にも「先祖代々のお墓に入る」という風習がありますが、ユダヤにおいてもそれは重要なことだったようです。ヤコブは、アブラハムがサラの埋葬のために購入した土地(創世記23章9節)に、自分も埋葬して欲しいと願います。
その墓は、カナンの地にあるマムレの洞窟にありました。そこにはサラとアブラハム、さらにイサクとリベカとレアが葬られました。ラケルは旅の途中で亡くなりましたので、エフラタに葬られましたが。
ついにヤコブは息を引き取り、先祖の列に加えられました。この言い方も独特です。教会では逝去者記念礼拝のときに逝去者名簿を読み上げますが、そのようなイメージでしょうか。
7月 18創世記5016
 ヨセフは自分の侍医たちに、父のなきがらに薬を塗り、防腐処置をするように命じたので、医者はイスラエルにその処置をした。
(創世記50章2節)
「なきがらに薬を塗り、防腐処置をするということは、ミイラにするということです。新しい聖書では、はっきり「ミイラ」という言葉が用いられています。新しい聖書に理解しやすくなった部分もあるということも、書いておきましょう。
なぜヨセフは医者に、このような処置をするように命じたかというと、父からエフロンの地にある洞窟に葬るように指示されたからです。そこまでの距離は遠く日数もかかるため、そのような処置が必要だったのです。
ラケルが亡くなったときには、そのような処置ができる医者もいなかったのでしょう。本当であればみんなと同じところに葬りたかったに違いありません。ところでイエス様はどうして、新しい墓に葬られたのでしょうか。
7月 19創世記50714
 一行はヨルダン川の東側にあるゴレン・アタドに着き、そこで非常に荘厳な葬儀を行った。父の追悼の儀式は七日間にわたって行われた。
(創世記50章10節)
エジプトで寄留者だったヤコブ(イスラエル)は、17年間エジプトの地に滞在しました。その間彼らは財をなし、子孫も増えました。昨日の箇所でヨセフは、父が葬って欲しいと言った場所に行かせて欲しいと、ファラオに願います。
ファラオはヨセフやヤコブの家族だけではなく、彼の宮廷の元老である重臣たちすべてとエジプトの国の長老たちすべても一緒に行かせます。それほどまでにヨセフがエジプトでおこなった功績は大きかったのでしょう。
彼らは荘厳な葬儀の後、7日間追悼の儀式をおこないます。カナンの人たちはそれを見て、「エジプト流の荘厳な追悼の儀式だ」と感じます。本来エジプト人ではない彼らの式がそのように見えたこと、何かおかしさも感じてしまいます。
7月 20創世記501517
 ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。
(創世記50章15節)
父ヤコブは亡くなりました。するとヨセフの兄たちは不安になりました。計算上では25年以上前のことになりますが、兄たちはヨセフを売り飛ばし、つらい目にあわせてしまっていたからです。
肉親からのいじめや裏切りは、とても心を傷つけます。なかなかその傷は癒されることはありません。きっと兄たちは、小さなことさえ許せない自分を知っていたのでしょう。だからヨセフも自分たちを許すはずがない、そのように思っていたかもしれません。
兄たちは人を介して、父の言葉をヨセフに伝えます。本当に父ヤコブがそのようなことを言ったのかは分かりませんが、この言葉を聞いて、ヨセフは泣きました。これは悲しみの涙でしょうか。憐れみの涙でしょうか。それとも喜びの涙でしょうか。

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