5月 1日「創世記31:1〜13」 | ||||
ヤコブは、ラバンの息子たちが、「ヤコブは我々の父のものを全部奪ってしまった。父のものをごまかして、あの富を築き上げたのだ」と言っているのを耳にした。 (創世記31章1節) |
||||
結婚式でよく読まれる聖書の中に、このような箇所があります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。(コリントの信徒への手紙13章4節)」 | ||||
ところがわたしたち人間は、すぐに様々なことに対しねたみます。自分より裕福な人がいたらねたみ、自分にはない才能を持っている人がいたらねたむ。ラバンも財産を増やしていくヤコブをねたみます。そしてその背後にある神さまの祝福をもねたむのです。 | ||||
その状況をみて、神さまはヤコブに「生まれ故郷に帰りなさい」と命じます。神さまはラバンのねたみも、ラバンがヤコブに対しておこなってきた仕打ちも知っていたからです。困難の前から去りなさいという神さまの言葉に、愛を感じることができます。 | ||||
5月 2日「創世記31:14〜21」 | ||||
そのとき、ラバンは羊の毛を刈りに出かけていたので、ラケルは父の家の守り神の像を盗んだ。 (創世記31章19節) |
||||
ヤコブがレアとラケルに神さまの使いの言葉を伝えると、二人は父の元から自分たちの財産と一緒に出発することに合意しました。父ラバンがヤコブに対しておこなってきた仕打ちを、聞かされていたのでしょうか。 | ||||
昨日と今日の箇所の小見出しは、「ヤコブの脱走(新しい聖書ではヤコブの逃走)」となっています。あまり響きのよい言葉ではありません。しかし話し合いで解決する段階は過ぎてしまったのでしょう。そのときは、「逃走」すればよいのです。 | ||||
ただラケルの「父の家の守り神の像(テラフィム)」を盗んだという行為はいただけません。テラフィムは祖先崇拝をおこなうための偶像です。ラケルはどうしてこのようなことをしたのでしょうか。純粋に「わたしたちを守って欲しい」という思いでしょうか。 | ||||
5月 3日「創世記31:22〜32」 | ||||
ラバンはヤコブに言った。「一体何ということをしたのか。わたしを欺き、しかも娘たちを戦争の捕虜のように駆り立てて行くとは。」 (創世記31章26節) |
||||
ヤコブたちが逃げたことを知って、ラバンは急いで追いかけます。それはヤコブが逃亡してから三日目のことです。ラバンは怒りに震えていたのでしょう。七日目に追いつきます。すごい執念です。 | ||||
ラバンはきっと手荒なことをしてでも、娘や孫や財産を取り戻したかったのでしょう。しかしそれを見越した神さまは、ラバンに夢の中で釘を刺します。 | ||||
ラバンが血相を変えて追跡したことには、もう一つ理由がありました。それは「わたしの守り神(テラフィム)」が無くなっていたからです。彼は財産だけでなく「神々の守り」までも奪うのか!とヤコブに対して怒りをぶつけるのです。 | ||||
5月 4日「創世記31:33〜42」 | ||||
ヤコブは怒ってラバンを責め、言い返した。「わたしに何の背反、何の罪があって、わたしの後を追って来られたのですか。」 (創世記31章36節) |
||||
「知らない」ということは、恐ろしいことです。ヤコブはラケルがテラフィムを盗んでいたことを知りませんでした。もし知っていたら、このときヤコブはどのような対応をしていたでしょうか。 | ||||
ラケルはラバンに「自分は月のものがあるので立てません」と言い、危機を脱します。血は汚れているとされていたので、ラバンは彼女が座っているところに近づけなかったのです。 | ||||
ラケルの言葉の真偽はわかりません。しかし彼女が窮地を乗り切ったことで、ラバンとヤコブの力関係が一変しました。ヤコブはラバンを責めたてます。本当に、知らないということは恐ろしいことです。 | ||||
5月 5日「創世記31:43〜50」 | ||||
そこはまた、ミツパ(見張り所)とも呼ばれた。「我々が互いに離れているときも、主がお前とわたしの間を見張ってくださるように。」 (創世記31章49節) |
||||
「この娘たちはわたしの娘だ。この孫たちもわたしの孫だ。この家畜の群れもわたしの群れ、いや、お前の目の前にあるものはみなわたしのものだ」というラバンの言葉を、ヤコブはどのような思いで聞いていたのでしょうか。 | ||||
確かに当時、すべての財産は家長のものでした。家長が亡くならない限り、財産が子どもに渡ることはありません。(ですからルカ福音書の「放蕩息子」が父親に財産を分けてくれと言ったことは、当時ではありえないことでした。) | ||||
ラバンはヤコブとの間で契約を立て、ヤコブを去らせることを決意します。これ以上自分の主張を通そうとしても無駄だと思ったのでしょうか。それともヤコブと共にいる神さまに恐れをなしたのでしょうか。 | ||||
5月 6日「創世記31:51〜54」 | ||||
どうか、アブラハムの神とナホルの神、彼らの先祖の神が我々の間を正しく裁いてくださいますように。 (創世記31章53節) |
||||
ラバンは契約に際して、石塚と柱を設けます。お互いにその石塚を超えないというのが、このときの契約です。それは娘や孫たちに今後一切会えなくなることを意味していましたが、ラバンはそれでよかったのでしょうか。 | ||||
ラバンは「アブラハムの神とナホルの神」の名を呼びます。アブラハムはヤコブのおじいさん、ナホルはヤコブの母リベカのおじいさんです。ヤコブの神は「アブラハムの神、イサクの神」だったでしょう。 | ||||
そしてラバンの神は、「ナホルの神、ベトエルの神」でした。それを同じ神として考えていたのかどうかはわかりません。ただここで言えることは、お互いの信仰を立てながら、契約が結ばれたということです。 | ||||
5月 7日「創世記32:1〜3」 | ||||
ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言い、その場所をマハナイム(二組の陣営)と名付けた。 (創世記32章3節) |
||||
ラバンとヤコブは契約を交わした後、一緒に食事をし、山で夜を過ごします。契約が結ばれたので、これから先二人は会うことがないでしょう。ラバンは娘や孫にも会えなくなります。一晩、どのような会話がなされたのでしょうか。 | ||||
ラバンは自分が住んでいる場所に帰って行きました。ヤコブはこれから、生まれ故郷に向かって旅をしていきます。すでに故郷を離れて、20年が経過していました。様々な思いが、ヤコブの胸の中に湧いてきたことでしょう。 | ||||
旅の途中、突然神の御使いたちが現れました。ヤコブはエサウの前から逃亡したとき、神の御使いたちが先端が天まで達する階段を上り下りする夢を見ました。再び神の御使いたちを見て、ヤコブの心にそのときの記憶がよみがえってきたのかもしれません。 | ||||
5月 8日「創世記32:4〜13」 | ||||
ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。 (創世記32章8節) |
||||
神の御使いたちを見たヤコブは、20年前に自分がエサウに対しておこなったことを思い出したのかもしれません。彼は父イサクをだまし、エサウに与えられるはずだった祝福を奪っていました。 | ||||
そのときエサウは怒り狂い、父イサクが亡くなったときにヤコブを殺そうと決意していました。生まれ故郷に帰るということは、兄エサウが住んでいる場所の近くに戻るということを意味します。ヤコブはそこで、先に使いを出すことにします。 | ||||
するとその知らせを聞いたエサウは、400人を引き連れてヤコブの元に向かいます。自宅でヤコブを待つのでも、従者数人を従えて向かうのでもありません。400人を引き連れてくるのです。ヤコブは恐れ、策を講じ、神さまに祈ります。 | ||||
5月 9日「創世記32:14〜22」 | ||||
『あなたさまの僕ヤコブも後から参ります』と言いなさい。」ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったのである。 (創世記32章21節) |
||||
ヤコブの策は、まず一族、羊と牛、らくだを二組に分けるというものでした。もしエサウが襲ってきても一組は無事だろうということです。そしてもう一つは、群れと群れの間には距離を置き、それぞれの僕にこのように言わせるということです。 | ||||
「これは、あなたさまの僕ヤコブのもので、御主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります」。エサウは群れに出会うたびに、この言葉を聞くのです。 | ||||
これが吉と出るか凶と出るか、策士策に溺れるという言葉がありますが、ヤコブの運命やいかに。ただみんなを先に行かせて自分は安全なしんがりを進むヤコブの姿は、あまり好きにはなれません。 | ||||
5月 10日「創世記32:23〜33」 | ||||
その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 (創世記32章29節) |
||||
「ヤボクの渡し」の箇所を読むたびに、「矢切の渡し(細川たかし)」を口ずさんでしまうのは、わたしだけでしょうか。ヤコブは夜中に妻とその従者、子どもたちを引き連れて、ヤボクの渡しを渡らせます。しかしヤコブだけは後に残りました。 | ||||
そこで突然、格闘が起こります。どういう経緯でそうなったのかは不明です。ヤコブは腿の関節を外されますが、格闘した相手から祝福を受けます。その相手は、神さまでした。 | ||||
この場面は、ヤコブの祈りだと解釈されることがあります。夜中じゅう祈り、必死になって神さまからの祝福を求めるヤコブの姿こそ、わたしたちが目指すべき祈りの姿勢だというのです。関節が外れるほどの激しい祈り、想像してみましょう。 |