3月 21日「創世記21:14〜21」 | ||||
神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。」 (創世記21章17節) |
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神さまに「サラの言うことを聞くように」と言われたアブラハムは、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、荒れ野に送り出します。ハガルには行く当てもなかったでしょう。また生きていく術も持たなかったと思います。 | ||||
そう考えると、アブラハムのこの行為はとても冷たく思えます。いくら神さまがその子も一つの国民とすると約束されたとしても、女性と子どもだけを荒れ野に放り出すのは、やりすぎだと感じてしまいます。 | ||||
神さまはハガルを守られました。神さまは子どもの泣き声を聞かれ、ハガルの目を開かれ、生きていくための水を得ることができました。二人は、これから先聖書には登場しません。サラはこれでよかったのでしょうか。 | ||||
3月 22日「創世記21:22〜34」 | ||||
アブラハムは答えた。「わたしの手からこの七匹の雌の小羊を受け取って、わたしがこの井戸(ベエル)を掘ったことの証拠としてください。」 (創世記21章30節) |
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ユダヤは乾燥した地域であり、水はとても大切でした。井戸を掘り当てることも大事ですし、その井戸の水を維持管理すること、略奪者から守ることもとても重要なことでした。 | ||||
アブラハムはペリシテ人の地において、寄留者でした。ですから当然、前から住んでいた人たちとの争いもあったことでしょう。しかし順調に財産を増やしていくアブラハムを見て周りの人たちは、その背後に神さまの存在を感じていたようです。 | ||||
アブラハムは争いを避けるために、契約を結びます。ヘブライ語で「井戸」はベエル、「誓う」と「七匹」はシェバと言います。そのためこの地は「ベエル・シェバ」と呼ばれるようになります。後世の人たちがこの地に来るたびに、アブラハムの契約を思い起こすのです。 | ||||
3月 23日「創世記22:1〜8」 | ||||
アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。 (創世記22章8節) |
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今日から始まる物語は、とても難しい箇所です。神さまはアブラハムに、息子イサクを「焼き尽くす献げ物」として献げなさいと言われます。21章12節で「あなたの子孫はイサクによって伝えられる」と言われていたにもかかわらずです。 | ||||
アブラハムは神さまの言葉に対して、何も反論しようとはしません。アブラハムがどのように思い、何を考えていたのか、聖書は何も語りません。彼は朝早く準備をし、イサクと従者を連れてモリヤの地に向かいます。 | ||||
アブラハムは「小羊はどこですか」と尋ねるイサクに、「きっと神が備えてくださる」と答えます。「その小羊とはお前のことだよ」という言葉を飲み込んだのでしょうか。それともきっと、神さまは助けてくださるに違いないという希望を捨てていなかったのでしょうか。 | ||||
3月 24日「創世記22:9〜14」 | ||||
御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」 (創世記22章12節) |
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アブラハムが息子イサクを縛り、刃物を取って屠ろうとした瞬間、天から主の御使いが「その子に手を下すな」と告げます。神さまはアブラハムがご自分を畏れ、自分の息子イサクをささげることを惜しむかどうかを試したというのです。 | ||||
「すべての物は神の賜物」、わたしたちは頭ではわかっていても、なかなかそうできないことがよくあります。お金や財産を手放すことができなかったり、名誉や地位にしがみついたり。 | ||||
すべての物は神さまによって備えられる。そのことを伝えるために、神さまはアブラハムを試みられました。ただ祭壇に縛られ、刃物をふるい落とされそうになったイサクの心情はどうだったのでしょうか。わたしだったらトラウマになります。 | ||||
3月 25日「創世記22:15〜19」 | ||||
地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。 (創世記22章18節) |
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自分の子どもをささげることをいとわなかったので、あなたを祝福する。神さまのこの考え方は、なかなか理解できるものではありません。「神さまのことを第一に考えよ」ということなのでしょうが、「殺すな」という教えとは相反します。 | ||||
あなたがわたしの声に聞き従ったから、わたしはあなたを祝福する。それがこの箇所で聖書が伝えたかったことです。アブラハムは信仰の父と呼ばれますが、そのような信仰を持つことは、わたしたちには難しいのかもしれません。 | ||||
だから、イエス様が必要なのです。自分の子どもどころか、お金も時間も、ちょっとした物さえもなかなか神さまにささげることができないわたしたち。そんな弱いわたしたちを神さまは愛し、救うために、イエス様を遣わされたのです。 | ||||
3月 26日「創世記22:20〜24」 | ||||
これらのことの後で、アブラハムに知らせが届いた。「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルとの間に子供を産みました。 (創世記22章20節) |
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突然アブラハムの兄弟ナホルの話題になります。創世記11章26節にあるように、アブラハムはテラの息子で、ナホル、ハランという二人の弟がいました。ちなみにアブラハムのおじいさんの名前もナホルです。ややこしいです。 | ||||
ハランの息子は、ソドムから逃げることができたロトです。ここまで、ナホルの子孫に関しては何の記述もありませんでした。 | ||||
しかしこの箇所に出てくる一人の人物が、24章以降に重要な役割を持ちます。八番目の子どもベトエルがもうけたリベカです。イサクとベトエルはいとこに当たりますが、イサクはアブラハムが100歳のときの子どもですので、リベカの方が、年齢が近いのでしょうか。 | ||||
3月 27日「創世記23:1〜2」 | ||||
サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。 (創世記23章2節) |
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サラは127歳で亡くなりました。イサクを生んだのが90歳のときでしたから、それから37年生きたことになります。ハガルとイシュマエルの件では少し印象を悪くしましたが、彼女は長年アブラハムと共に歩んでいきました。 | ||||
アブラハム同様、生まれ故郷を離れて過ごすことは、大変だったと思います。また旅の途中でファラオやゲラルの王に召し入れられそうになるなど、思いもしない出来事が多くありました。 | ||||
サラという名前には、「高貴な女性」という意味があります。またサラの性質を象徴する言葉として豊穣、創造、寛容があげられるそうです。アブラハムが信仰の父であるならば、サラは何と形容すればよいでしょうか。 | ||||
3月 28日「創世記23:3〜9」 | ||||
「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」 (創世記23章4節) |
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アブラハムはヘブロンの地では寄留者でした。そのためサラを埋葬するには、自分たちの土地に戻るか、新しい土地を得るか、という選択が考えられました。アブラハムは新しい土地を手に入れることにしました。 | ||||
そこには、神さまの「あなたの子孫を空の星のように、海辺の砂のように増やす」という約束も頭にあったことでしょう。これから先、生まれてくる子どもたちのためにも墓地(土地)を確保しておく。そのことはとても大事なことでした。 | ||||
アブラハムの頭には、すでに目ぼしい場所があったようです。エフロンが所有するマクペラの洞窟です。その場所を十分な代価で譲ってくれるようにと、アブラハムは提案します。 | ||||
3月 29日「創世記23:10〜16」 | ||||
アブラハムはこのエフロンの言葉を聞き入れ、エフロンがヘトの人々が聞いているところで言った値段、銀四百シェケルを商人の通用銀の重さで量り、エフロンに渡した。 (創世記23章16節) |
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墓地を購入する交渉は、町の門でおこなわれました。人々が多く行き交う町の門は、当時の社交場でした。大事な交渉事も、この場所でなされました。ルツ記の中にも、そのような場面が登場します。 | ||||
エフロンは当初、畑地も洞窟も差し上げますと申し出ます。とても謙虚で、ありがたい言葉です。しかしアブラハムはその提案をやんわりと断り、きちんと代金を支払いますと返します。 | ||||
その言葉を聞いてエフロンは、銀400シェケルを提示します。約4.5sです。実はこの金額は、当時の畑の額としてはものすごく高額でした。アブラハムは断らないだろうと吹っ掛けたのでしょうか。アブラハムは黙って銀を量り、渡します。 | ||||
3月 30日「創世記23:17〜20」 | ||||
その畑とそこの洞穴は、こうして、ヘトの人々からアブラハムが買い取り、墓地として所有することになった。 (創世記23章20節) |
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こうしてアブラハムは、マクペラの洞窟を含む畑を手に入れることができました。土地を持つことはこの時代大変重要なことでしたので、多少(かなり)高額でしたが、よかったのかもしれません。 | ||||
そしてアブラハムは、妻のサラを埋葬します。埋葬といっても土の中に埋めるのではなく、洞窟の中に安置するというイメージでしょうか。イエス様の復活の場面をイメージすればよいと思います。 | ||||
ここでアブラハムとサラが主人公の物語は、一旦終わります。次の章からは、イサクの物語です。計算ではイサクは37歳になっていますが、まだ独身です。そのイサクに妻を迎えるという物語です。お楽しみに。 | ||||
3月 31日「創世記24:1〜9」 | ||||
僕は尋ねた。「もしかすると、その娘がわたしに従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか。」 (創世記24章5節) |
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アブラハムは妻を亡くし、年を重ねていきます。息子のイサクもサラが亡くなったときにはすでに37歳でしたが、まだ妻がいませんでした。当時にしては、遅かったのだと思います。 | ||||
アブラハムはイサクのために妻を迎えるように、僕(しもべ)に命じます。ただしそこに3つの条件を出します。彼らが住んでいる地であるカナンからは迎えないこと。生まれ故郷である親族の地から迎え入れて欲しいということ。 | ||||
そしてその親族の地には、息子イサクは連れて行くなということです。三番目の条件が厳しいように感じます。しかし子孫にカナンの地を与えられた以上、ここから出て行かせる必要はないとアブラハムは考えたのでしょう。神さまが与えてくださると信じるのです。 |