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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2023年3月1日〜10日

3月 1「創世記16712
 主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい 主があなたの悩みをお聞きになられたから。
(創世記16章11節)
サライがつらく当たるため、ハガルは我慢できずに、サライの前から逃げ出してしまいます。アブラムもハガルではなくサライの味方になったため、とても辛かったのではないかと思います。
そのハガルの元に、主のみ使いがやって来ます。イエス様の降誕物語の中のマリアへの受胎告知のように、「やがてあなたは男の子を産む」と告げ、その子の名前を「イシュマエル」にするように伝えます。
「イシュマエル」とは、「主は聞きいれる」という意味です。ハガルの苦しみが、神さまに聞かれたのです。ただし彼は「兄弟すべてに敵対して暮らす」と預言されます。そのせいか、ユダヤ教ではイシュマエルのことを、よこしまな人物と見ていたようです。
3月 2創世記161316
 ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。
(創世記16章13節)
この「日ごとの聖句」では、新共同訳聖書を用いています。新共同訳聖書では、「エル・ロイ」という言葉のあとに、「わたしを顧みられる神」との説明が書かれています。ただしこの説明は聖書原文にはなく、翻訳時に付け加えられたものです。
そのせいか、新しい聖書にはこの説明がなくなりました。ただ個人的には、説明があった方が聖書を読みやすいように思います。
イスラム教では、イシュマエルとハガルには神さまの特別な加護があったことから、二人は神聖視されています。彼を特別な預言者や犠牲の子とする見方は、ユダヤ教が彼をよこしまな人物とするそれとは、大きく違っています。
3月 3創世記1718
 あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。
(創世記17章5節)
アブラムが99歳のとき、神さまは彼を「アブラハム」と改名します。彼が決めたのではなく、神さまが決められたということに、大きな意味があります。
「アブラム」は、「父は高い」という意味でした。それが「アブラハム」になると、「多くの国民の父」という意味に変わります。「わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする」という神さまの約束通りの名前です。
イシュマエルはアブラハムが86歳のときの子どもでした。ですからすでに13歳になっています。神さまはその子を用いて、アブラハムとの契約を守るのでしょうか。そして99歳のアブラハムには、神さまのこの約束はどのように聞こえたのでしょうか。
3月 4創世記17914
 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。
(創世記17章10節)
割礼という儀式は、エジプトやシリアなどにも広まっていました。ただしそれは「掟」というものではなく、習慣としておこなわれていたようです。男性の生殖器の包皮を切り取ることによって、ばい菌が入り込むことを防ぐ効果もあったようです。
ユダヤ人は、割礼をとても大事にしていきました。割礼を受けることで、救いの中に加えられると信じていたからです。そのためイエス様が天に昇られキリスト教が形づくられていたころ、割礼をどう捉えるべきかという議論が起こりました。
パウロは大切なのは割礼ではなく、信仰であることを常に説きました。「無割礼の異邦人」であったとしても、その信仰によって救われるというのです。このことはわたしたちにとっても、素晴らしい福音(グッドニュース)です。
3月 5創世記171522
 アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」
(創世記17章17節)
アブラムがアブラハムになったのと同じように、神さまはサライの名前も「サラ」とするように命じられます。「サラ」には、「高貴な女性」という意味がありますが、神さまはどのような意図で彼女の名前をそのように変えたのでしょうか。
アブラハムは、サラに男の子が与えられるという神さまの言葉を聞いて、笑ってしまいます。子どもが生まれるときには少なくとも、アブラハムは100歳、サラは90歳になってしまうからです。
しかし神さまは、その約束が必ず守られること、また生まれてくる子どもにはイサク(彼は笑う)と名付けるように告げます。そしてイシュマエルには祝福が与えられ、イサクとは契約を立てるとも言われます。祝福と契約、この違いは何なのでしょうか。
3月 6創世記172327
 アブラハムの家の男子は、家で生まれた奴隷も外国人から買い取った奴隷も皆、共に割礼を受けた。
(創世記17章27節)
以前ノアの箱舟の物語の中で、神さまは「洪水が地を滅ぼすことはもはやない」という契約を立てられました。それは神さまの一方的な思いであり、そのような契約のことを片務契約と呼びます。
そして今回の神さまとアブラハムとの契約は、双務契約です。双方が約束を守らなければならないという、わたしたちの社会でも一般的な契約の形です。
アブラハムは、自分を含む家の男子すべてに割礼を施すことを命じられました。その中には、奴隷も外国人もいたようです。それが彼らの義務でした。そのアブラハムの行為を受けて、神さまは「あなたの子孫を大いに増やす」という約束を履行されるのです。
3月 7創世記1818
 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。
(創世記18章8節)
ユダヤの人たちには、旅人はもたなさなければならないという強い思いがありました。それは、自分たちが寄留者であった時代にもてなされた経験を忘れないためだとも言われています。
ルカ11章5〜6節には、旅をしていた友達に対してパンを出したいから、真夜中に他の友達のところに借りに行くという内容のたとえが語られます。しかしそれが友達ではなかったとしても、旅人に対して親切にするのは当たり前のことだったようです。
ところがアブラハムは、「旅人をもてなす」以上に3人をもてなします。上質の小麦粉でパン菓子を作り、柔らかくておいしそうな子牛を調理します。さらに彼は、給仕までします。アブラハムには、彼ら3人の正体がわかっていたのでしょうか。
3月 8創世記18915
 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」
(創世記18章15節)
アブラハムにもてなされた3人の人は、神さまの使いでした。ただし聖書には明確に、天使やみ使いといった言葉は使われていません。これまで神さまは、アブラハムには直接語り掛けてきました。
3人のうちの一人が言います。「わたしが来年の今ごろ戻ってきたとき、サラは男の子を生んでいる」。17章15〜22節で神さまがアブラハムに告げたことと同じことを、再び告げるのです。
サラはその言葉を天幕の入り口で聞いて、心の中で笑いました。そのことを彼らは責めます。しかしアブラハムも、神さまから直接言われたときに同じように笑っていました。どうしてサラだけが、厳しく非難されるのでしょうか。しかも最後は、主の言葉になっています。
3月 9創世記181622
 主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。」
(創世記18章17節)
聖書はここから、ソドムとゴモラの物語に入ります。ルカ福音書10章12節に「言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」というイエス様の言葉がありますが、その地名は神さまの裁きによる滅びの象徴として用いられていました。
この辺りから、その人たち(3人の人)と主(神さま)とが一緒になって、アブラハムと語り合っているようにも思えます。まず神さまが3人の人に「隠す必要があろうか」と相談し、「見て確かめよう」と促します。
そこで3人の人はソドムに向かって行きますが、アブラハムと神さまはその場にとどまっているようです。アブラハムと神さまとの信頼関係が、ここにみられます。
3月 10創世記182333
 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
(創世記18章32節)
ソドムを滅ぼすことを決意された神さまに対し、アブラハムは執り成しをします。「正しい人が50人いるかもしれない。その人たちも一緒に滅ぼすのか」というアブラハムの訴えを、神さまは聞き入れます。
わたしたちの執り成しの祈りも、神さまからみたらアブラハムの執り成しと同じようなものなのかもしれません。神さまと祈りの中で交渉をしていく。言い方はあまりよくありませんが、「しつこく」「執拗に」祈る姿勢も求められているのです。
アブラハムは50人から45人、40人、30人、20人、10人と、少しずつハードルを下げていきます。しかし結果的にソドムには、正しい人は10人もいなかったようです。5人、3人、1人と交渉を続けていけばよかったのに、と思ってしまいます。

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