2月 1日「創世記8:15~22」 | ||||
主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。 (創世記8章21節) |
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ようやくノアたち家族と動物たちは、箱舟の外に出ることができました。雨が降り始めたのはノアが600歳の時の第二の月の17日、地が乾ききったのが601歳の時の第二の月の27日ですから、一年以上彼らは箱舟の中で過ごしたことになります。 | ||||
箱舟から出たノアが最初にしたのは、「祭壇を築く」ということでした。辺りを探索するのでも住む場所を確保するのでもなく、真っ先に神さまを礼拝するのです。 | ||||
「焼き尽くす献げ物」の煙は、「宥めの香り」として神さまの元に届けられます。その香りを嗅ぎ、神さまは「生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」と誓われます。ノアの無垢な思いが通じたのでしょう。 | ||||
2月 2日「創世記9:1~7」 | ||||
神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」 (創世記9章1節) |
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神さまは、創世記1章28節で最初の人に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と語られました。そして今回、ノアと息子たちを祝福しながら、そのときとほぼ同じ言葉を語られます。 | ||||
なぜ「地を従わせよ」という言葉がなくなったのかはわかりませんが、一つ重要なことがあります。それは、この時から肉食が認められたということです。そのため、獣も鳥も魚も人間を恐れることとなります。ただし「血抜き」はしなければなりませんが。 | ||||
また人の血を流す者は、その報いを受けるということも合わせて語られます。その理由は、「神は人を神のかたちに造られたから」です。人の血を流すということは、神さまの姿を傷つけるということと同じことです。「神の似姿」を大切にしましょう。 | ||||
2月 3日「創世記9:8~17」 | ||||
すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。 (創世記9章13節) |
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神さまは、契約を立てます。その契約の相手はノアとその家族だけではなく、すべての子孫、そしてすべての生き物も含まれます。つまり神さまは、今これを読んでいるわたしたちとの間にも、契約を結ばれたということになります。 | ||||
この契約は、「片務契約」と呼ばれます。一般社会の契約は「双務契約」と呼ばれ、甲と乙、どちらとも義務を遂行しなければなりません。それに対して「片務契約」は、どちらか片方だけが一方的に約束を守るという契約です。 | ||||
神さまの決意は、「これから先、滅ぼさない」というものです。どれだけわたしたちが神さまに背いても、そのように約束してくださいました。虹は空に向けた弓のようにも見えます。神さまが約束を破ったら、ご自分に向けて矢を放つという決意とも取れます。 | ||||
2月 4日「創世記9:18~23」 | ||||
セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。 (創世記9章23節) |
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箱舟から出たノアとその家族は、新たなスタートを切ります。農夫だったノアは、ぶどう畑を作りました。一から畑を再生していく作業は、600歳を超えたノアにはつらかったのではないでしょうか。 | ||||
彼はぶどう酒を飲み、酔って天幕の中で裸になりました。今だったら笑い話で済まされるかもしれませんが、「裸になる」という行為自体がまず、非難されるべきことだったようです。 | ||||
さらにもう一つ、非難されることがありました。それは他人の裸、特に親の裸を見るということでした。イスラエルの人々の間では、その行為は親を侮辱することであり、罪であるとされていました。そのためセムとヤフェトは後ろ向きに歩いたのです。 | ||||
2月 5日「創世記9:24~28」 | ||||
ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、こう言った。「カナンは呪われよ 奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」 (創世記9章24~25節) |
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昨日の箇所でノアはぶどう酒に酔い、天幕の中で裸になりました。それを見たカナンの父(祖先)であるハムは外にいた兄弟、セムとヤフェトを呼んで裸のノアに衣服を掛けました。ところがこの行為を知ったノアは激怒します。 | ||||
セムとヤフェトが自分の裸を見なかったのに対して、ハム(カナン)は見てしまいました。このことでノアは怒り、カナンを呪うことになります。いくら父の裸を見ることが罪だと言っても、ハムが気づいてくれなかったら風邪をひいたかもしれないのに、勝手なことです。 | ||||
ハムの子孫であるカナン人が住む場所は、後に「約束の地」としてアブラハムに与えられます。セムの子孫はイスラエル人とされますので、この聖書の記述がイスラエル人とカナン人の敵対関係の起源だということができます。 | ||||
2月 6日「創世記10:1~5」 | ||||
海沿いの国々は、彼らから出て、それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった。 (創世記10章5節) |
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創世記5章には、アダムからノアまでの系図が書かれていました。そしてこの10章には、ノア、そしてその息子セム、ハム、ヤフェトの系図が書かれます。イスラエルの人々がいかに系図を大事にしていたかが分かります。 | ||||
最初に登場するのは、ヤフェトの系図です。順番的にはセムからが自然なのでしょうが、なぜかいつも3番目に書かれるヤフェトが一番です。彼の子孫は小アジアや地中海方面の諸民族となったそうです。 | ||||
子孫の中には、土地の名前にもなっている名前も登場します。たとえば「タルシシュ」は、ヨナ書1章3節に出てくる、ヨナが神さまから逃れようとした場所です。 | ||||
2月 7日「創世記10:6~20」 | ||||
カナン人の領土は、シドンから南下してゲラルを経てガザまでを含み、更に、ソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイムを経てラシャまでを含んだ。 (創世記10章19節) |
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次にハムの子孫です。彼の子孫の名前の中には、エジプト、カナン、ラマ、シェバ、バベル、アッシリア、ニネベ、ペリシテ人、エブス人、アモリ人、そしてソドム、ゴモラなど、聖書の他の箇所に出てくる地名や民族が多くみられます。 | ||||
そしてその多くは、あまりいい意味で用いられていません。エジプトはイスラエルの民を奴隷として扱いました。バベルはバビロニア(バビロン)のことで、イスラエルの民はこの国に捕囚として長い期間連行されました。 | ||||
ハムの子孫たちがイスラエルの民と対立しているのは、ハムがノアの裸を見たからだと聖書は説明します。そしてノアの「カナンは呪われよ 奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ」という言葉を、ユダヤの人たちは今も信じているから、争いが絶えないのです。 | ||||
2月 8日「創世記10:21~32」 | ||||
ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。 (創世記10章32節) |
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最後にセムの系図が書かれます。セムはノアの三人の息子の長男なのに扱いが低いようにも感じますが、そうではありません。セムの系図は11章10~26節に改めて書かれます。そのときには年齢などもあわせて書かれているので、やはり「本家」なのでしょう。 | ||||
日本でも、織田信長の末裔とか、先祖が源頼朝だとか、そのような方がおられます。また宮内庁が公開している「天皇系図」は、紀元前660年に即位した神武天皇がスタートとなっています。 | ||||
聖書に書かれているのは、それよりずっと前のことです。なお聖書は、すべての民族がノアからスタートしたと語ります。文字通り信じるかどうかは別として、神さまの祝福がわたしたちを含むすべての民族に与えられていることを覚えましょう。 | ||||
2月 9日「創世記11:1~4」 | ||||
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。 (創世記11章4節) |
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ここから物語は、「バベルの塔」に入ります。有名な物語なのですが、今日と明日のたった9節で完結します。「ノアの洪水」の物語とは随分ボリュームが違います。 | ||||
人々はみな、同じ言葉を用いていました。聖書の記述によれば一人の人から民族が分かれたと考えられていたので、当たり前と言えば当たり前です。そして彼らはレンガを使うことが出来るようになったのを機に、高い塔を建てようとします。 | ||||
当時、神さまは天におられると考えられており、メソポタミアにはジッグラトというレンガを用いた巨大な塔も建てられていました。神さまの訪れる場所として建設されていたようですが、バベルの塔にはそれだけではなく「名を上げる」という目的もありました。 | ||||
2月 10日「創世記11:5~9」 | ||||
こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。 (創世記11章9節) |
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「高い塔を建てて名を上げよう」という人間の思いは、神さまによって打ち砕かれました。「人間が無謀にも神さまに並び立とうとした」物語は、わたしたちに大きなインパクトと教訓を与えてくれます。 | ||||
言葉によって相手に自分の思っていることが伝わらなければ、一緒に物事を進めることができません。逆に言えばわたしたち人間は、お互いに関わり合い、助け合いながらでないと生きていけないということを伝えているのかもしれません。 | ||||
また「自分たちは神さまより偉大だ」と考えてしまう傲慢さも、神さまは否定されます。科学の発達などで、目に見えないものは信じられないという人もいますが、神さまの前に謙虚になって、目に見えないものに目を向ける気持ちも必要なのではないでしょうか。 |