本文へスキップ


日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2023年1月1日〜10日

1月 1「創世記115
 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
(創世記1章3節)
聖書は、創世記からスタートします。そしてその最初には、天地創造の物語が載せられています。神さまがどのように世界をつくられたのかが書かれているのですが、これは科学的・歴史的な出来事というよりも、神さまが人間とどのように関わろうとされているのかということでしょう。
神さまは最初に、「光あれ」と言われました。「無」から何かをつくられたのではなく、混沌とした地の闇の中に、光をつくられたのです。太陽や月がつくられるのは、これよりも後のことです。ということは、この光は日光などではなく、神さまからの光ということです。
「夕べがあり、朝があった」と書いてある通り、ユダヤでは一日の始まりは日没です。暗闇を経て、朝が訪れる。それも神さまの光がわたしたちを包み込むのだということを、心に覚えましょう。その光を、神さまは良しとされるのです。
1月 2創世記1613
 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
(創世記1章12節)
二日目に神さまは、水と水とを分けられました。当時の世界観では陸地は海で囲まれ、またその下には水があると考えられていました。また天には透明のドームのような覆いがあり、その上にも水があったとされています。
そして大空の上にある水が、たまに雨になって落ちてくると考えられていたようです。さらにその上に神さまがおられるという信仰から、「天におられるわたしたちの父よ」という祈りの言葉も出来てきたのかもしれません。
三日目には、神さまは地と海を分け、草木や植物を生じさせます。植物は生物が生きるのに必要な酸素を生成してくれます。神さまはわたしたちが生きるようにと、植物をつくられました。地球環境を大切にするということは、神さまの思いを大事にすることなのです。
1月 3創世記11419
 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。
(創世記1章16節)
古代ギリシアがそうであったように、太陽や月を神格化して崇拝する宗教は多く存在します。占星術や星占いなど、天体の動きを見て自分の運命や未来を予想することは、現代社会の中でもみられることです。
四日目に神さまがつくられたのは、「二つの大きな光るもの」でした。昼と夜をそれぞれ治めるものとしてつくられていますから、これらは太陽と月のことでしょう。しかし聖書は、それらはあくまで「被造物」だということを強調するのです。
太陽や月、星たちを拝むことはないのです。またそれらのものが、人の運命を変えることもないのです。ちなみに新共同訳聖書では東方からイエス様を拝みに来たのは「占星術の学者」だと訳されていましたが、新しい聖書では「博士」に戻っていました。よかったです。
1月 4創世記12025
 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
(創世記1章22節)
神さまは五日目に魚や鳥を、そして六日目の前半に地上の生き物をつくられました。ただし聖書は「魚」とは書かず、「生き物が水の中に群がれ」と書いています。当時の人たちは、海の中に一体どんな生物がいるのかよく知らなかったのかもしれません。
新共同訳聖書で「大きな怪物」と訳されている言葉は、新しい聖書では「大きな海の怪獣」となっています。ヘブライ語で「タンニニム」というこの生物はヘビのような怪物で、後に退治されたとされます。後にも出てきますが、どうやらヘビは嫌われ者のようです。
神さまは魚と鳥をつくられた後に、「産めよ、増えよ」と命じられます。この言葉は人をつくられた後にも言われますが、この神さまの思いをわたしたちも心に留めておきたいと思います。
1月 5創世記12631
 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
(創世記1章27節)
六日目の後半、ついに神さまは人をつくられます。でも今日の箇所を読んで、「あれ?」と思わなかったでしょうか。土の塵を粘土のようにこねたり、あばら骨をとったり、鼻に息を吹きかけることなく、「男と女に創造された」からです。
現在の聖書学では、聖書は様々な資料を集めて編集されたと考えられています。そのため異なる形の創造物語が共存しているというのです。しかしここで大切なのはそのような「聖書の成り立ち」ではなく、聖書を通して神さまが伝えようとされていることです。
「神にかたどって」という言葉が心に響きます。新しい聖書では、「自分のかたちに」となっています。わたしたちは神の似姿としてつくられました。そしてこの世界を管理する義務を与えられています。極めて良かった世界を、持続していきましょう。
1月 6創世記213
 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
(創世記2章3節)
福音書の中には、イエス様とユダヤ人指導者との間に起こった「安息日論争」が何度か記されています。この安息日は、神さまが天地創造の七日目にすべての創造の仕事を離れ、安息されたことに由来します。(十戒にもでてきますが)
ユダヤ教では、安息日は土曜日です。それは安息日とは「第七の日」のことだからです。しかしキリスト教では、イエス様が復活された日曜日を「主の日(主日)」として礼拝しているため、「安息日だから礼拝している」というわけではありません。
ただ、本来「神さまが休息なさった日だから、同じように休んで神さまに心を向けましょう」という恵みの日だった安息日は、「一切の労働を禁ずる」という禁止命令に変わっていきます。このことを神さまはどう感じておられるのでしょうか。
1月 7創世記249
 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
(創世記2章7節)
ここから再び、人の創造物語に入ります。前にも書きましたが、聖書は複数の伝承を集めて編集されたと考えられており、1章の物語とは違った視点で神さまのみ業を感じることができます。
聖書によると最初の人は「アダム」とされますが、その名は土(アダマ)が語源となっています。埋葬式の式文の中に、「土を土に、灰を灰に、塵を塵に返し」という文言がありますが、その式をおこなうたびにこの箇所が思い起こされます。
そして神さまは、人の鼻に命の息を吹き込まれます。こうして人は、生きる者とされます。原語では息は、霊や風と同じ言葉になっています。わたしたち一人ひとりにも神さまの霊が注ぎ込まれ、神さまによって生きる者とされているのです。
1月 8創世記21017
 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
(創世記2章17節)
「エデンの園」はどこにあるのか。古くからそのことは議論され、様々な人が「楽園」を求めていきました。四つの川の名前からその場所を特定したり、産出される物から導き出してみたり。
神さまは人を、エデンの園に住まわせます。そこを耕し、守らせるためです。ただし食べるのに良さそうな果実がふんだんに生えていたので、過酷な労働などは必要なかったでしょう。神さまは人に、「良い場所」をお与えくださったのです。
ただし神さまは、一つだけしてはならないことを伝えられました。善悪の知識の木からだけは、食べてはならないのです。命の木からはいいのか?という疑問も残りますが、ここで覚えておきたいのは神さまが命じられたとき、まだ人は一人だけであったということです。
1月 9創世記21825
 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
(創世記2章18節)
神さまは人に、「助ける者」を与えようとされます。ただしこの「助ける者」とは、助手や召使い、奴隷などではなく、「お互いに助け合う対等な関係」を示しているようです。神さまはそのような存在を、まず家畜、空の鳥、野の獣の中に見出そうとされます。
しかしその中に、ふさわしい助け手は見つけられませんでした。そこで神さまは人を眠らせ、あばら骨を一本取り、「女」をつくり上げます。ただしこれは、「男」の優位性を示しているのではありません。
聖婚式の中に、「誓約」(祈祷書309頁)というところがあります。この中で夫も妻も、「あなたを愛し、あなたを敬い、あなたに仕え、あなたとともに生涯を送ります」と同じ言葉で約束します。「二人が一体なので、二人はお互いに助け手となる」、それが大事なのです。
1月 10創世記317
 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
(創世記3章6節)
今日の箇所は、アダム(男)とエバ(女)(まだ聖書では名前が付けられていませんが、わかりやすいようにこう呼びます)が、蛇にそそのかされて善悪の知識の木から実を食べてしまう、という有名な物語です。
ヘビがエバに話しかけたときに、アダムはどこにいたのでしょうか。聖書を読むと、どうも一緒にいたようです。だとすれば、ヘビがエバに語りかけているときに、アダムはなぜ止めなかったのでしょうか。黙って様子をうかがっていたようにしか思えません。
神さまは、その実を食べると「死ぬことになる」と言われました。アダムは本当にそうなるのか、エバの様子を観察していたのでしょうか。実を食べた瞬間に死が訪れることはありませんでしたが、結果的に彼らはエデンの園を追われることになります。

バナースペース

勤務地:日本聖公会 奈良基督教会
 教会HPはこちら

〒630-8213
奈良市登大路町45

TEL 0742-22-3818

牧師:司祭マタイ古本靖久
副牧師:司祭エレナ古本みさ