12月 11日「ヨハネによる福音書15:1〜17」 | ||||
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 (ヨハネによる福音書15章4節) |
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「わたしはぶどうの木」というイエス様の言葉は、わたしたちに大きな安心を与えてくれます。わたしたちがイエス様につながることで、イエス様から生きる力を得ることができるのです。 | ||||
またイエス様は、「わたしもあなたがたにつながっている」と語られます。たとえわたしたちが手を離したとしても、イエス様は決してわたしたちを離されません。 | ||||
そしてさらに、「わたしがあなたがたを選んだ」とまで言われるのです。美味しそうな実をつけるとは思えないわたしたちを選び、わたしたちにつながり続け、実を結ぶのを辛抱強く待たれるイエス様の姿が、ここにあるのです。 | ||||
12月 12日「ヨハネによる福音書15:18〜16:4a」 | ||||
世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。 (ヨハネによる福音書15章18節) |
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14章から始まったイエス様の告別説教ですが、昨日までは「愛」という言葉が多く出て来たのに対して、今日の箇所には「憎む」という言葉が7回も登場します。イエス様の語調が一変するのです。 | ||||
イエス様は、世を愛されました。しかし世は、イエス様を憎みました。弟子たちが世に属しているのであれば、世は弟子たちを愛するかもしれません。しかしイエス様は弟子たちを、世から選び出されました。だから世は弟子たちを、イエス様と同様に憎むというのです。 | ||||
しかしだからといって、キリスト者が世を憎んでいいかというと、そうではないと思います。実際にキリスト教国は自分たちだけを正当化し、他の国を敵として憎んできました。その結果が、多くの悲しい戦争だったのです。 | ||||
12月 13日「ヨハネによる福音書16:4b〜15」 | ||||
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 (ヨハネによる福音書16章12節) |
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イエス様の告別説教が続いていきます。弟子たちはなぜイエス様がこれほどまでに真剣に語られるのか、だんだん分かってきたことでしょう。イエス様が自分たちの元から離れていかれるという現実を、受け入れざるを得なかったのです。 | ||||
しかしイエス様は、ご自分が去ったあとに弁護者を遣わすことを約束されました。弁護者とは聖霊のことです。弁護者は罪や義、裁きについて、世の誤りを明らかにします。つまり聖霊によって、それまで見えなかったものが見えるようになるのです。 | ||||
そしてイエス様は、「今、あなたがたには理解できない」と言って、言葉を止めます。この「理解できない」という訳は、新しい聖書では「耐えられない」と変えられました。わたしたちが苦しみにも耐えられるように、弁護者である聖霊は与えられるのです。 | ||||
12月 14日「ヨハネによる福音書16:16〜24」 | ||||
はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。 (ヨハネによる福音書16章20節) |
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「しばらくすると」という言葉が二度出てきます。イエス様はご自分が弟子たちから離れ、また戻ってくることを、いずれも「しばらくすると」という言葉で言い表します。十字架、そして復活が間もなく起こるということでしょうか。 | ||||
イエス様の十字架の場面で、弟子たちは悲しみます。ずっと一緒にいた方がいなくなることだけではなく、その方を見捨ててしまった自分たちを悔いて、彼らは悲しみます。しかしその悲しみが、復活の喜びに変えられるのです。 | ||||
明けない夜はありません。わたしたちが今、どんな苦しみの中にあったとしても、悲しみの涙を流していたとしても、イエス様は必ず来てくださいます。だから神さまに、願い続けましょう。イエス様のみ名によって。 | ||||
12月 15日「ヨハネによる福音書16:25〜33」 | ||||
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。 (ヨハネによる福音書16章33節) |
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イエス様の告別説教が終わります。弟子たちはイエス様の言葉を聞いて、「分かりました。信じます」と答えます。しかし聖書はこの後、弟子たちがイエス様を見捨て、逃げ出してしまう様子も記します。 | ||||
その中で、「わたしは既に世に勝っている」というイエス様の宣言が心に留まります。弟子たちがいくら不安に思っても、イエス様を裏切り隠れていても、イエス様は弟子たちを見捨てはされません。 | ||||
わたしたちも勇気をもって、日々を歩んでいきましょう。わたしたちの前にも、様々な苦難があります。どうしようもない壁にもぶつかります。しかしこの世に勝っておられるイエス様が、わたしたちに力を与えてくれるのです。 | ||||
12月 16日「ヨハネによる福音書17:1〜26」 | ||||
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。 (ヨハネによる福音書17章21節) |
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3章にわたった長い告別説教のあと、イエス様は天を見上げて祈られました。この祈りを「大祭司の祈り」と呼ぶことがあります。弟子たちや、その後信仰に入る人たちのために、執り成しの祈りをされるのです。 | ||||
この祈りの中で、「すべての人を一つにしてください」という言葉があります。「一つ」とはまったく同一になるということではなく、すべての人が関わり合うということでしょう。 | ||||
そのときに、世界は「神の国」と変えられるのではないでしょうか。となりの人との間に壁を作るのではなく、お互いに手を取り合うこと。そのことを願い、イエス様は今もわたしたちのために執り成しの祈りをされているのです。 | ||||
12月 17日「ヨハネによる福音書18:1〜11」 | ||||
イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。 (ヨハネによる福音書18章6節) |
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イエス様はお祈りを終えると、キドロンの谷の向こうにある園に行かれました。その場所は弟子たちと度々集まっていた場所で、イエス様を裏切るユダもその場所を知っていました。イエス様は逮捕されるために、その場所に向かったのかもしれません。 | ||||
イエス様はやって来た兵士たちに対し、「誰を捜しているのか」と尋ねます。「ナザレのイエスだ」という彼らの答えに対し、「わたしである」と答えます。旧約聖書で神さまがモーセに対し、「わたしはある」と自分の名を答えられたことを思い起こさせます。 | ||||
イエス様を捕らえに来た人たちは、その迫力に後ずさりし、地に倒れます。目に見えない不思議な権威に押されたのでしょうか。そしてイエス様はたった一人で、すべての重荷を担っていきます。弟子たちを去らせ、十字架へと向かっていくのです。 | ||||
12月 18日「ヨハネによる福音書18:12〜18」 | ||||
門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。 (ヨハネによる福音書18章17節) |
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逮捕されたイエス様は、大祭司の屋敷に連れていかれます。そのイエス様の後を、二人の弟子が付いて行きました。一人はシモン・ペトロ、もう一人の名前は記されていません。ペトロはイエス様が逮捕されるとき、剣を抜いて立ち向かいました。 | ||||
ペトロはイエス様から「剣をさやに納めなさい」と言われたものの、何とかして助けたいと思っていたのでしょう。ペトロは大祭司の知り合いであったもう一人の弟子の口添えで大祭司の中庭に入り、様子を伺っていました。 | ||||
他の弟子たちが皆どこかに逃げてしまった中、それでもペトロはイエス様の近くにいようとしました。「あなたのためなら命を捨てます」とまで言ったペトロでしたが、彼の前には大きな試練が待ち構えていました。 | ||||
12月 19日「ヨハネによる福音書18:19〜27」 | ||||
ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。 (ヨハネによる福音書18章27節) |
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イエス様への尋問と同時並行で、ペトロの物語が進行していきます。昨日の場面でも触れましたが、ペトロは決して逃げ回っていたわけではなく、大好きなイエス様を何とか助けたいという一心で剣を抜き、大祭司の中庭にもぐりこんだのです。 | ||||
ペトロが三度もイエス様のことを「知らない」と言ったことを、簡単に「人間の弱さ」と結び付けてしまうのは、どうなのでしょうか。ペトロが他の弟子と同じように逃げていれば、誰かに尋問されることもなかったはずです。 | ||||
あえて自らを危険な場所に起き、そこで弱さが出てしまったペトロ。彼はイエス様に見捨てられてしまうのでしょうか。決してそのようなことはありません。イエス様は弱さを持つペトロを、温かいまなざしで包み込んでくださいます。詳しくは12月30日の箇所で触れます。 | ||||
12月 20日「ヨハネによる福音書18:28〜38a」 | ||||
イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 (ヨハネによる福音書18章34節) |
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ローマ総督であるピラトは、大きな祭りの期間は官邸にいました。何か大きな事件があったとしても、すぐに対応できるようにです。そこにユダヤの人々が、イエス様を連れていきます。ローマの法律で裁かせるためです。 | ||||
ユダヤの人たちはイエス様を連れていきますが、自分たちは官邸には入りません。それは異邦人の住まいに入ってしまうと、汚れると考えていたためでした。ずい分勝手な解釈だと思いますが。 | ||||
ローマの法律で裁くのには、理由がありました。それはイエス様を「死刑」にするためです。ローマの死刑の中で、最もむごい方法が「十字架刑」でした。神さまの計画が遂行されるように、人々はそれぞれ動いていくのです。 |