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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年12月1日〜10日

12月 1「ヨハネによる福音書121219
 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。
(ヨハネによる福音書12章16節)
聖公会では復活前主日(復活日の前の日曜日)を「しゅろ(棕櫚)の主日」と呼び、礼拝堂にしゅろの葉を飾ったり、しゅろの葉で作った十字架を配ったりします。しかし聖書には、「しゅろ」という植物は登場しません。
出てくるのはこのヨハネ福音書の「なつめやしの枝」だけです。実は昔使用されていた口語訳聖書では、このなつめやしを「しゅろ」と訳していました。
この出来事は、旧約聖書続編マカバイ記一13章51節の記事に影響を受けているようです。しかしイエス様は馬に乗った力強い王ではなく、子ろばに乗った平和の王としてエルサレムに入られるのです。
12月 2「ヨハネによる福音書122026
 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
(ヨハネによる福音書12章24節)
何人かのギリシア人が、祭りのときにエルサレムに来ていました、彼らの目的は「礼拝」です。つまり彼らは異邦人でありながら、「ユダヤ教」に改宗した人たちです。
ところがユダヤ教では血筋を重視するため、彼らはいつまでも「異邦人」としてのレッテルを張られていたと思われます。しかし「サマリアの女性」の物語からもわかるように、イエス様は罪人も、徴税人も、そして異邦人も分け隔てなさらない方だと聞いたのでしょう。
イエス様はそんな彼らに、「一粒の麦」の話をされます。イエス様はすべての人が生きることができるように、ご自分を犠牲にされました。その犠牲によって、考え方や思想の違い、職業や民族の違いを超えて、すべての人たちに命が与えられるのです。
12月 3「ヨハネによる福音書122736a
 今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。「父よ、わたしをこの時から救ってください」と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
(ヨハネによる福音書12章27節)
ヨハネ福音書には、いわゆる「ゲツセマネの祈り」が載せられていません。しかしこの場面でイエス様が語った言葉は、ゲツセマネの祈りを彷彿とさせます。十字架を前にしてイエス様は心騒ぎ、叫ばれているのです。
他の福音書に書かれているほど絶望の中で、というわけではありません。しかし苦悩の中で嘆き、それでも神さまのみ心である十字架の道を選択されたというイエス様の決意を、わたしたちは忘れずにいたいと思います。
そのイエス様の思いに応えて、天から声が聞こえます。イエス様は周りの人に対し、「あなたがたのためにこの声が聞こえたのだ」と伝えます。光のあるうちに、光であるご自分を受け入れるようにと、イエス様は語られるのです。
12月 4「ヨハネによる福音書1236b43
 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。
(ヨハネによる福音書12章42節)
イエス様はこの次の13章以降、逮捕されるまで人々の間から立ち去ります。彼らに対して多くのしるしをなさったものの、彼らはイエス様を信じることが出来ませんでした。
聖書は人々が信じなかった理由を二つあげています。いずれもイザヤ書の言葉ですが、「神は彼らの目を見えなくし」という言葉について考えてみたいと思います。素直に読めば、「神さまは人々が立ち帰ることを良しとされなかった」ということになるかもしれません。
しかしそれよりも大事なのは、「何事にも神さまが決められた時がある」ということではないかと思います。すべての人が同時にイエス様を受け入れることなどないのです。それぞれの人がそれぞれ定められた時に、イエス様に出会い、光を受け入れることができるのです。
12月 5「ヨハネによる福音書124450
 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
(ヨハネによる福音書12章47節)
イエス様は人々の前から立ち去る直前に、「わたしは世を裁くためではなく、救うために来た」と叫ばれました。聖書を読むときには、いつもこの言葉を通奏低音のように響かせていきたいと思います。
昨今、ホームページやSNS等に簡単に個人の意見を書き込むことができるようになりました。ほどんどの人はそのツールを有効に活用していますが、中には自分の考えだけを正当化し、他者を非難したり貶めたりする書き込みも見受けられます。
見ていて気分の良いものではありませんし、何よりも事実に基づいていないことも多くあります。イエス様が裁くためではなく救うためにこの世に来られたことを思い起こしながら、わたしたちも人と接していきたいと思います。
12月 6「ヨハネによる福音書13120
 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
(ヨハネによる福音書13章14節)
聖公会では復活日の前の木曜日を「聖木曜日」と呼び、洗足式や聖餐制定日の礼拝をおこなうことがあります。わたしは二度ほど「洗足式」に参加したことがありますが、そのときにいろんなことを感じました。
当時のユダヤでは、「足を洗う」ことは奴隷がする仕事でした。道路が舗装されているわけではなく、ぬかるみや動物の排泄物なども普通にあったことでしょう。そのような中を歩き回った足を洗うことは、何を意味していたのでしょうか。
足を洗うためには、その人の前にひざまずかなければなりません。わたしも洗足を体験したときに、牧師先生が自分の前に膝をついたのを見て驚きました。同じようにあなたたちもしなさいと、イエス様は命じられているのです。
12月 7「ヨハネによる福音書132130
 イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。
(ヨハネによる福音書13章23節)
「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。ヨハネ福音書には明確に「最後の晩餐」の場面は描かれていませんが、おそらくその過越の食事の中で、イエス様はこの言葉を語ったのでしょう。
ヨハネ福音書には、「イエスの愛しておられた弟子」が登場します。ここではイエス様に「その裏切り者は誰ですか?」と尋ねるように言われています。「最後の晩餐」の絵画の中には、イエス様にもたれるその弟子の姿が描かれることもあります。
一方で、この事実にも目を向けたいと思います。それはこの出来事の直前に、イエス様はイスカリオテのユダの足も洗ったということです。イエス様はユダが裏切ることをご存じでした。しかしイエス様は、彼の足をもひざまずいて洗われたのです。
12月 8「ヨハネによる福音書133138
 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネによる福音書13章34節)
ユダが去った後、イエス様は「新しい掟」を弟子たちに与えます。それは「互いに愛し合いなさい」ということです。ただしこう付け加えられています。「わたしがあなたがたを愛したように」と。
それではイエス様はどのように、弟子たちを愛されたのでしょうか。「愛」という言葉は日本語では異性間や家族など限定された関係で使われることが多いのですが、聖書の「愛」は一方的で見返りを求めず、シャワーのように与えられるものをあらわします。
初期の日本語の聖書の中には、この言葉を「御大切」と翻訳したものがありました。イエス様が不完全な弟子たちのことをとにかく大切にしたように、あなたたちもお互いのことを大切にしなさい。これがイエス様の与えられた「新しい掟」なのです。
12月 9「ヨハネによる福音書14114
 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
(ヨハネによる福音書14章6節)
ヨハネ福音書の14〜16章は「告別説教」と呼ばれる箇所です。イエス様には弟子たちとの別れを前に、伝えておかなければならないことがたくさんあったのでしょう。その冒頭に語られたのが、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」という言葉でした。
この箇所は、お葬式や逝去者記念式の時に読まれることも多いです。しかし同時に、今を生きるわたしたちに対する希望の言葉としても、心に留めておきたい言葉です。「イエス様が用意してくださるわたしたちの場所」、想像しただけでもワクワクしませんか。
続けて、「わたしは道であり、真理であり、命である」という言葉を残されました。イエス様を通らなければ、そしてイエス様の命をいただかなければ、わたしたちは歩むことはできないのです。聖餐を受けるときに、この言葉を思い起こしたいと思います。
12月 10「ヨハネによる福音書141531
 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
(ヨハネによる福音書14章16節)
「弁護者」とは、法廷で当事者を擁護する人のことです。イエス様が「別の弁護者」と言われたということは、イエス様も「弁護者」だったということです。イエス様は何を「弁護」されていたのでしょうか。
わたしたち人間は、誰一人として神さまの前に正しくありません。それどころか日々、罪を重ねながら生きています。それなのにイエス様は、ご自分の血をもって神さまとの間に立ち、わたしたちを和解させようと働きかけてくださるのです。
その役割を、別の弁護者である聖霊に託されたのです。命の与え主である聖霊もまた、わたしたちと神さまとの間をとりなすために、わたしたちに与えられました。わたしたちが「みなしご」にならないように、神さまの愛はわたしたちを包み込んでいるのです。

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