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日ごとの聖書

ショートメッセージ 〜2022年11月21日〜30日

11月 21「ヨハネによる福音書93541
 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
(ヨハネによる福音書9章41節)
昔、日曜日の夜に「知ってるつもり?!」という番組があったのを覚えておられるでしょうか。歴史上の人物を取り上げ、あまり知られていないエピソードを紹介する番組でした。そして2002年3月に放映された最終回は、「イエス・キリスト」でした。
その番組を見た多くのクリスチャンは、「これは知っている」、「わたしたちには常識だ」と思ったかも知れません。歴史的なことや聖書に書かれていることであれば、知識として知っているからです。
ではイエス様の本質は、見えていますか。生まれつき見えなかった人は、イエス様に出会ったときにすぐその本質を見ることができました。しかし「わたしは見える」と思い込んでいる人には、理解できません。結局、「知ってるつもり」で終わってしまうのです。
11月 22「ヨハネによる福音書1016
 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
(ヨハネによる福音書10章3節)
聖書には羊飼いと羊の話がよく出てきます。旧約に出てくるダビデは羊飼いでしたし、イエス様の誕生を真っ先に知らされたのも羊飼いでした。また「見失った羊のたとえ」という話も収められています。
羊という動物は、外敵に対して非常に弱いそうです。移動するのも遅いし、臆病で目もよく見えないそうです。しかも野獣や強盗などの外敵が多く、囲いの中で休み、羊飼いに導いてもらわないとすぐに殺されてしまうのです。
だから、自分の弱さを知っている羊は、自分の羊飼いの声を聞き分けるのです。自分の力で歩くことができないことを、分かっているからです。わたしたちはどうでしょう。自分の弱さに気づいているでしょうか。自分の羊飼いの声に耳を傾けていますか。
11月 23「ヨハネによる福音書10721
 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
(ヨハネによる福音書10章11節)
ユダヤ地方では、羊は珍しい動物ではありません。羊飼いも一般的な職業です。それではもし当時のユダヤの人たちに、「あなたはどんな人が良い羊飼いだと思いますか?」と質問したら、どのような答えが返って来たでしょうか。
「草が多く生えているところや水場に羊たちをうまく導ける人」、「群れの数を上手に増やせる人」、中には「強い群れにするために弱い羊を切り捨てる人」という答えもあったのかもしれません。
しかしイエス様は、良い羊飼いとは「羊のために命を捨てる人」だと言われます。そしてその目的は、羊が命を豊かに得るためです。その良い羊飼いとは、十字架に向かわれたイエス様ご自身です。では羊とはだれのことでしょうか。そう、わたしたちのことです。
11月 24「ヨハネによる福音書102242
 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
(ヨハネによる福音書10章25節)
ヨハネ福音書では5章以降、イエス様とファリサイ派などのユダヤ人指導者たちとの論争が続いていました。ついにユダヤ人たちは、「あなたがメシアならはっきりそう言いなさい」とイエス様に詰め寄ります。
イエス様に出会った瞬間、「この人は救い主だ」と受け入れることができる人もいれば、自分の思った答えが得られないと、いつまでも信じることができない人もいます。それは今のわたしたちも同じなのかもしれません。
それは、イエス様の声を聞こうとしないから。その声に耳を貸そうとしないから。そういうことなのでしょう。ユダヤ人はその指摘に腹を立て、石を手にしました。その結果、イエス様は彼らのそばから去っていかれました。あなたがそこにいたなら、どうしていましたか。
11月 25「ヨハネによる福音書11116
 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
(ヨハネによる福音書11章4節)
ベタニアのマリアとマルタはルカ福音書10章にも登場します。イエス様はその兄弟ラザロを含む三人を愛しておられました。エルサレムに滞在しているときには、ベタニアの彼らの家を拠点としていたのかもしれません。
ヨハネ福音書はベタニアやエルサレムがある地域と、洗礼者ヨハネが洗礼を授けていた場所とをヨルダン川で分けます。地図を見ても、その位置関係はよくわかりません。ただ言えるのは、10章の終わりにイエス様は、ヨルダン川を渡ってきたばかりだということです。
ラザロが病気だということを聞いても二日間、イエス様がその場を動かなかったのは、すぐに行くと危険だったということもあるでしょう。しかしその時間を費やすことは、これからおこなわれることが、「神によって」なされることだと伝えるためだったのです。
11月 26「ヨハネによる福音書111727
 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
(ヨハネによる福音書11章25節)
イエス様がラザロの元にたどり着いたのは、すでにラザロが墓に葬られてから4日後でした。ユダヤでは死後3日間は、霊が体のそばにとどまっていると考えられていました。ですからその霊すらも去って行ったということになります。
ベタニアのマリアとマルタの姉妹は、イエス様が来られたと聞いて違う反応を見せます。マリアは家で座っていたままでしたが、マルタは迎えに行きました。ただしそれは、すぐに来てくれなかったイエス様に何か一言、言いたかったからなのかもしれません。
イエス様はマルタに、「わたしは復活であり、命である」と語ります。この言葉は、お葬式などでよく用いられる言葉です。マルタはこの言葉を聞いて、「あなたは神の子、メシア」だとイエス様に伝えました。信仰告白です。マルタはイエス様の言葉を信頼したのです。
11月 27「ヨハネによる福音書112837
 イエスは涙を流された。
(ヨハネによる福音書11章35節)
マルタがマリアに「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちすると、マリアはすぐに立ち上がり、イエス様の元に向かいます。イエス様が来られたと聞いても動かなかった体が、「自分を呼んでいる」と聞いたときに動いたのです。
彼女もまたイエス様に、「〜なら、死ななかったでしょうに」と訴えます。ここまではマルタと同じ言葉です。しかしその後が続きません。涙があふれて、言葉に詰まってしまったのでしょうか。
イエス様は憤りを覚え、心を騒がせます。そして涙を流されました。この涙は、何の涙なのでしょうか。自分が来たのに泣き続けることへの悲しみでしょうか。それとも人間を悲しみに陥れる力に対してのものでしょうか。ただ理由はどうであれ、一緒に泣いてくださるイエス様の姿をいつも心に留めたいと思います。
11月 28「ヨハネによる福音書113844
 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
(ヨハネによる福音書11章43節)
死はどんな人にも訪れます。お金をいくら持っていても、贅沢な服で身を固めていたとしても、必ずいつの日か、死はやって来ます。そしてどんな人も、抵抗することはできません。それでも人は、憤ります。
ラザロの死を前に、イエス様も憤られました。しかしその憤りは、単なる嘆きや抵抗ではありませんでした。死をも司る神さまの力を伝えたいという震えでした。神さまの愛は、死の悲しみよりもはるかに大きいことを知らせたいという強い思いでした。
この物語の出来事はラザロの蘇生であり、復活ではありません。なぜならラザロにはもう一度、死が訪れたからです。その“二度目の”死まで、彼がどのように生きたのかは分かりません。しかし彼は、「死んでも生きる」ということを信じ続けたのではないでしょうか。
11月 29「ヨハネによる福音書114557
 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
(ヨハネによる福音書11章51節)
イエス様が墓に葬られて4日も経っていたラザロという人物を生き返らせたというニュースは、瞬く間にユダヤ中に流れたことでしょう。ラザロの姉妹を慰めに来ていた人などから、その出来事は伝えられていったと思われます。
ラザロと親しい人たちは、イエス様の行為を好意的に捉え、イエス様を信じたことでしょう。ただし奇跡行為者としての側面が強かったかもしれません。一方宗教指導者たちには、「このままでは大変なことになる」という恐れが生じました。
大祭司カイアファは、イエス様ひとりを犠牲にすれば、すべてが丸く収まるのではないかと提案します。宗教指導者たちは、この考えに賛同します。ところがこのことは、彼の考えから出たのではありませんでした。神さまのご計画が、知らないうちに組み込まれていくのです。
11月 30「ヨハネによる福音書12111
 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
(ヨハネによる福音書12章6節)
イエス様がエルサレムに入る直前、ベタニアのマリアは純粋で非常に高価なナルドの香油をイエス様の足に塗り、自分の髪でそれを拭ったそうです。香油の量は1リトラ、約326gですが、その価値は300デナリオン、およそ300万円もしたそうです。
その光景を見て、イスカリオテのユダは言います。「香油を売って、貧しい人々に施せばよいのに」と。確かに正論です。しかしイエス様は彼の言葉よりも、マリアの行為を大切にしました。
教会においても、「正論」をかざして他の人の行為に対する批判がおこなわれることがあります。自分を肯定するために、聖書の言葉が切り取られて語られることもあるでしょう。しかし大切なのは、その行為はイエス様に喜ばれているのかどうかということなのです。

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