11月 11日「ヨハネによる福音書7:40〜44」 | ||||
こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。 (ヨハネによる福音書7章43節) |
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イエス様の言動は、ユダヤの人たちに戸惑いと対立を引き起こしていきました。「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」という言葉は、わたしたちにも疑問を抱かせます。 | ||||
というのもわたしたちは、イエス様がユダヤのベツレヘムで生まれたと、マタイ・ルカ福音書を通じて聞いているからです。イエス様がベツレヘムで生まれたという伝承は、広く伝わっていなかったということでしょうか。 | ||||
いずれにせよ、自分の知識だけを頼りに物事を判断するときに、人々の間に対立が生じるということを、わたしたちも心に留めておかなければならないと思います。神さまの前に、「絶対」ということはありえないのですから。 | ||||
11月 12日「ヨハネによる福音書7:45〜53」 | ||||
我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。 (ヨハネによる福音書7章51節) |
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ヨハネ福音書3章でイエス様と議論を交わしたニコデモが、再び登場します。彼はファリサイ派の一人で、ユダヤ人たちの指導者でした。彼は「我々の律法によれば」と、祭司長やファリサイ派の人々のやり方を理路整然と批判します。 | ||||
祭司長やファリサイ派というユダヤ人指導者たちは、群衆がイエス様のことを信じるのは、律法を知らないからだと決めつけていました。律法を知っている議員やファリサイ派は、イエス様の考えを受け入れるはずがないと思っていました。 | ||||
しかし仲間の指導者の一人であるニコデモが、「律法によれば」という指摘をしてきたのです。しかしそれでも、彼らの目は遮られたままでした。自分が信じ続けてきたものを否定することは、それほど難しいことなのです。 | ||||
11月 13日「ヨハネによる福音書8:1〜11」 | ||||
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 (ヨハネによる福音書8章7節) |
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律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦淫の現場で捕らえられた女性をイエス様の元に連れてきます。彼らはイエス様に、この女性の罪をどう扱うか尋ねます。「赦せ」と言えば律法を無視したことになり、「殺せ」と言えば民衆の心は離れていくでしょう。 | ||||
彼らの訴えを聞いたイエス様は、かがみ込んで指で地面に何か書かれていました。一体何を書いておられたのでしょうか。そして長い沈黙のあと、イエス様が言った言葉は、「罪のない者がまず石を投げなさい」というものでした。 | ||||
わたしたちは教会や政治、社会のことなどを声高に批判することがあります。でもそのときに、自分のことをきちんと見つめ直すようにしましょう。自分こそが「正義」だと思い込むことは、自分の罪と向き合えていないことと等しいとも言えるのです。 | ||||
11月 14日「ヨハネによる福音書8:12〜20」 | ||||
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 (ヨハネによる福音書8章12節) |
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ヨハネ福音書1章4〜5節には、このように書かれています。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。 | ||||
そして今日の箇所で、その光とはご自分のことであるとイエス様は証しされました。暗闇の中でどこに向かって歩いていいのかわからないわたしたちのために、イエス様という世を照らす光が来てくださったのです。 | ||||
今年は11月27日に降臨節を迎えます。わたしたちを照らし、命に導くために、神さまはその独り子をお与えくださいます。神さまからのそのような大きな愛を感じる日が、クリスマスなのです。 | ||||
11月 15日「ヨハネによる福音書8:21〜30」 | ||||
「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」 (ヨハネによる福音書8章24節) |
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「わたしはある」という言葉を聞くと、出エジプト記の中でモーセが神の名を尋ねたときに言われた「わたしはある。わたしはあるという者だ(出エジプト記3章14節)」という箇所を思い出す方もおられるでしょう。 | ||||
新しい聖書(聖書協会共同訳)では、出エジプト記3章14節が「私はいる、という者である」という訳に変わりましたが、神さまもイエス様も「存在し続ける」ということが大切なことなのではないでしょうか。 | ||||
そして「共にいてくださる」イエス様は、その十字架によってわたしたちを独りにはしないと約束してくださいます。「わたしはいつもあなたがたのそばにある(いる)」と、宣言してくださるのです。 | ||||
11月 16日「ヨハネによる福音書8:31〜38」 | ||||
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。 (ヨハネによる福音書8章32節) |
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真理とは何でしょうか。イエス様を十字架につけたポンティオ・ピラトはイエス様への尋問のときに、「真理とは何か」と最後に言います。真理とは決して変わることのない正しいことを指します。 | ||||
イエス様の「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ14章6節)」という言葉を思い出す人も多いでしょう。イエス様は「真理」として、この世に来られました。そしてわたしたちを自由にしてくださるのです。 | ||||
わたしたちは、罪に束縛されています。毎日正しく生きようと思っても、悪い思いが次から次へと浮かび、人を傷つけ、神さまに背いてしまいます。その罪の鎖からわたしたちが解放され、罪から自由になることを、イエス様は望まれているのです。 | ||||
11月 17日「ヨハネによる福音書8:39〜47」 | ||||
わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。 (ヨハネによる福音書8章43節) |
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唐突に、アブラハムという名前が出てきます。アブラハムは創世記12〜25章に登場する人物で、「信仰の父」と呼ばれます。彼は神さまによってアブラハムと改名される前は、アブラムと呼ばれていました。 | ||||
彼は神さまから、「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」と命じられます。何のしるしも保険もない中で、新しい土地に家族を連れて行くのはとても大変なことです。しかし彼は、「主の言葉に従って旅立った」(創世記12:4)のです。 | ||||
これが「アブラハムの信仰」です。ただ神さまの言葉のみを信じ、その言葉に従ったのです。ところが「アブラハムの子」を自認する彼らは、神さまから示された「真理」であるイエス様を否定するのです。 | ||||
11月 18日「ヨハネによる福音書8:48〜59」 | ||||
イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」 (ヨハネによる福音書8章58節) |
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「はっきり言っておく」と訳されている言葉は、原文通りだと「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う」となります。今からとても大切なことを言うよ、という合図です。続けて、イエス様は「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言われます。 | ||||
ヨハネ福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」という言葉で始まります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とある通り、言とはイエス様のことでしょう。 | ||||
ですから、アブラハムよりも前に「ある」と言われたイエス様の言葉は理解できます。しかしユダヤ人にとっては、この言葉は神さまに対する冒涜以外の何物でもありませんでした。そしてついにユダヤ人たちは、イエス様に投げつけるために石を手にするのです。 | ||||
11月 19日「ヨハネによる福音書9:1〜12」 | ||||
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 (ヨハネによる福音書9章2節) |
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この弟子たちの質問が本人に聞かれていたとしたら、目の見えない人はどう感じたでしょうか。弟子たちは、まるで「他人ごと」のようにイエス様に質問をなげかけます。そしてその質問は、「因果応報」という考えに基づいたものでした。 | ||||
当時ユダヤでは、財産・長寿・子孫を得ることは、神さまからの祝福であり、その逆は神さまの罰であると考えられていました。しかしイエス様は、はっきりとその考えを否定したのです。「誰が罪を犯したのでもなく、神さまの業がこの人に現れるためなのだ」と。 | ||||
わたしたちの周りにある宗教の中には、先祖の霊を鎮めるため、神の怒りを抑えるため、罪を清めるためなど、様々な理由をつけて献金を集め、財産を奪い取ろうとするものもあります。しかしわたしたちの「弱さ」は、神さまの栄光を現すためのものなのです。 | ||||
11月 20日「ヨハネによる福音書9:13〜34」 | ||||
彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」 (ヨハネによる福音書9章25節) |
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昨日の箇所で目の見えるようになった人が、今日はファリサイ派の人々からの事情聴取を受けます。最初は目が見えるようになった本人、次にその人の両親、そしてもう一度本人が呼び出され、質問をされます。 | ||||
両親は目が見えるようになった人は自分の息子だと答えますが、どうやって見えるようになったのか、誰がそうしたのかは「分からない」「本人に聞いてくれ」と明確な答えを避けました。それは会堂から追放されるのを避けるためでした。 | ||||
しかし本人は「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と、イエス様がメシアであることを証言します。その結果、彼は外に追い出されてしまいました。わたしたちがこの場にいたら、どのような行動をするのでしょうか。 |